武田地区
江戸時代の奉行、武田源左衛門は、岩木川下流の開拓・治水につとめました。この武田源左衛門にちなんだ武田地区には、大字富野・豊島・芦野・田茂木・長泥・豊岡・福浦の各集落があります。
江戸時代から明治時代中ころにかけて、これらの集落は、それぞれ独立した村でしたが、中里・内潟地区にくらべると新しい村々です。1889年(明治22年)、以上の7ヶ村が合併して、武田村となりました。役場は大字富野(旧富野村)におかれました。
1955年(昭和30年)には、武田村・中里町・内潟村の1町2村が合併して、現在の中里町が誕生しました。かつての武田村は、武田地区と呼ばれるようになりました。
富野の歴史は、江戸時代よりはじまると考えられています。それ以前のことについては遺構や遺物が未発見ですので、よくわかっていません。現在の富野は、江戸時代前期(17世紀後半)、弘前藩田舎庄金木新田の村として誕生しました。大川作右衛門・加賀屋弥八郎などの人々によって開拓されたのが最初とされています。
富野遺跡溝状遺構 富野遺跡出土陶器 富野遺跡出土木製品 江戸時代中期(18世紀前後)には、般若寺や弘前藩の米蔵(御蔵:後に八幡村へ移転)が造られました。江戸時代後期(19世紀前半)になると、猿賀神社がまつられ、富野は新田地帯の信仰の中心地として栄えるようになりました。同神社内には、江戸末期から明治時代にかけて、船乗りなどの人々がおさめた船絵馬が、90枚近く保存されています。また、富野遺跡からは、江戸時代の人々が使ったはしやおわんなどが出ました。
富野猿賀神社 船絵馬(猿賀神社) 富野小学校 明治時代はじめ、弘前県をへて、青森県北津軽郡に属しました。1889年(明治22年)には、豊島・芦野・田茂木・長泥・豊岡・福浦各村と合併し、武田村大字富野となりました。1955年(昭和30年)武田村が中里町と合併した結果、中里町大字富野となり、現在に続いています。町役場武田支所・武田小学校・富野保育所など、武田地区の中心として、公共施設が集中します。小字として、千歳・大磯・中島・沖津・田今があります。
豊島の歴史は、現在のところ江戸時代よりはじまると考えられています。それ以前のことについては遺構や遺物が未発見ですので、よくわかっていません。現在の豊島は、江戸時代前期(17世紀後半)弘前藩田舎庄金木新田の村として誕生しました。野呂半左衛門などによって開拓されたのが最初とされています。
熊野宮もそのころたてられましたが、江戸時代中期(18世紀前半)岩木川の洪水のため流されました。その後場所をあらためてまつられたのが、現在の熊野宮です。
豊島熊野神社明治時代はじめ、弘前県をへて、青森県北津軽郡に属しました。1889年(明治22年)には、富野・芦野・田茂木・長泥・豊岡・福浦各村と合併し、武田村大字豊島となりました。1955年(昭和30年)、武田村が中里町と合併した結果、中里町大字豊島となり、現在に続いています。小字として、川袋・豊本・千鳥・宮本があります。
芦野の歴史は、現在のところ江戸時代よりはじまると考えられています。それ以前のことについては遺構や遺物が未発見ですので、よくわかっていません。現在の芦野は、江戸時代前期(17世紀後半)、弘前藩田舎庄金木新田の村として誕生しました。佐藤太兵衛や三上彦九郎などの人々によって開拓されたのが最初とされています。
つねに岩木川の洪水になやまされてきましたが、いくどもの河川工事などによって村をまもってきました。
明治時代はじめ、弘前県をへて、青森県北津軽郡に属しました。1889年(明治22年)には、富野・豊島・田茂木・長泥・豊岡・福浦各村と合併し、武田村大字芦野となりました。1955年(昭和30年)、武田村が中里町と合併した結果、中里町大字芦野となり、現在に続いています。小字として、福泊・清水・堤の袖があります。
豊岡の歴史は、江戸時代よりはじまると考えられています。それ以前のことについては遺構や遺物が未発見ですので、よくわかっていません。現在の豊岡は、江戸時代前期(17世紀後半)、弘前藩田舎庄金木新田の村として誕生しました。葛西甚兵衛などによって開拓されたのが最初とされています。また、豊岡村の近くには、おなじころ石川彦左ェ門によって開拓された川内村がありました。
豊岡加茂神社それから江戸時代中期(18世紀後半)にかけて、神明宮(金木新田の総鎮守)・加茂神社・稲荷神社・光勝寺・浄土院(豊岡村)、妙乗寺(川内村)などの寺社がたてられましたが、たびたび水害にあい、妙乗寺はまもなく金木に移されました。このように両方の村とも、岩木川の洪水になやまされ、河川工事などによって村を維持してきましたが、川内村は、明治時代はじめに豊岡村に合併されました。
明治時代はじめ、弘前県をへて、青森県北津軽郡に属しました。1889年(明治22年)には、富野・豊島・芦野・田茂木・長泥・福浦各村と合併し、武田村大字豊岡となりました。1955年(昭和30年)武田村が中里町と合併した結果、中里町大字豊岡となり、現在に続いています。小字として、若松・緑川・片岡・三笠・俵舛があります。
福浦の歴史は、江戸時代よりはじまると考えられています。それ以前のことについては遺構や遺物が未発見ですので、よくわかっていません。現在の福浦は、はじめ豊田村と福浦村に分かれていました。両方の村とも、江戸時代前期(17世紀後半)弘前藩田舎庄金木新田の村として誕生しました。豊田村は杉山茂太右衛門、福浦村は新岡弥惣ほかによって開拓されたのが最初とされています。
かつての今岡集落豊田村は、江戸時代中期(18世紀前半)今岡村となったと考えられます。明治時代はじめ、弘前県をへて、青森県北津軽郡に属しました。おなじころ、福浦村と今岡村は合併しました。1889年(明治22年)には、富野・豊島・芦野・田茂木・長泥・福浦各村と合併し、武田村大字福浦となりました。
1955年(昭和30年)、武田村が中里町と合併した結果、中里町大字福浦となり現在に続いています。小字として、松野尾・浦島・若野尾・若野浦があります。
田茂木の歴史は、江戸時代よりはじまると考えられています。それ以前のことについては遺構や遺物が未発見ですので、よくわかっていません。現在の田茂木は、江戸時代前期(17世紀後半)、弘前藩田舎庄金木新田の村として誕生しました。坂本弥左衛門・鈴木治左衛門・福士長兵衛などの人々によって開拓されたのが最初とされています。また、田茂木村の近くには、同じころ瀬野有右ェ門・葛西太右ェ門によって開拓されたという福井村がありました。
田茂木村の稲荷神社は、江戸時代中期(18世紀前後)にまつられましたが、たびたび水害にあい何度も流されました。このように両方の村とも、たびたび岩木川の洪水にあい、河川工事などによって災害を防いできましたが、福井村は、明治時代はじめに、田茂木村に合併されました。
田茂木稲荷神社明治時代はじめ、弘前県をへて、青森県北津軽郡に属しました。1889年(明治22年)には、富野・豊島・芦野・長泥・豊岡・福浦各村と合併し、武田村大字田茂木となりました。また、若宮地区(下長泥)は昭和のはじめに、竹田地区は戦後まもなく開拓されました。1955年(昭和30年)武田村が中里町と合併した結果、中里町大字田茂木となり現在に続いています。田茂木防災センター・若宮小学校・武田小学校協和分校などがあります。小字として、鳴見・望月・若宮・若緑があります。
長泥の歴史は、現在のところ江戸時代よりはじまると考えられています。それ以前のことについては遺構や遺物が未発見ですので、よくわかっていません。現在の長泥は、江戸時代後期(19世紀前半)、佐藤六郎左ェ門などによって開拓されました。稲荷神社・善勝寺(その後廃寺)はこのころたてられました。
はじめは福泊村とよばれ、江戸時代末期(19世紀後半)ごろ長泥村となりました。凶作や水害のため、何度も危機をむかえましたが、河川工事などによって村を保ってきました。
かつての長泥地区 現在の長泥地区明治時代はじめ、弘前県をへて、青森県北津軽郡に属しました。1889年(明治22年)には、富野・豊島・田茂木・芦野・豊岡・福浦各村と合併し、武田村大字長泥となりました。1955年(昭和30年)、武田村が中里町と合併した結果、中里町大字長泥となり、現在に続いています。長泥小学校があります。小字として、玉清水があります。