猿賀神社船絵馬群解説


は じ め に

猿賀神社は、中里町富野に所在する天台宗般若寺境内の一隅に位置します。詳しくは「猿賀深砂大権現」と称し、由緒資料等によれば、文化4(1807)年に建立が許され、文政8(1815)年に尾上町猿賀神社より分霊されたと伝えられています。

同神社のかたわらを流れる岩木川では、古来より大正年間ころまで河川交通が盛んで、十三湖を介して日本海の海運ともつながっていました。その船主や船頭たちが、航行の安全を祈願して奉納したものが「船絵馬」です。

猿賀神社には、奥津軽一円から北海道松前まで広域にわたる人々によって奉納された船絵馬88枚が一括して保存されており、中里町文化財に指定されています。

おもに江戸時代後期から明治時代末にかけて奉納された船絵馬は、100年あまりの歳月を経ているにもかかわらず、今なお鮮烈な色彩をとどめており、往時の水運や船体構造に関する資(史)料として、あるいは“下の猿賀様”信仰の一面を示す民俗資料として重要な情報を提供することでしょう。

本企画展開催にあたり、船絵馬の出展に快くご承諾をいただいた般若寺住職佐井川英秀氏をはじめ地域の方々に、衷心より感謝申し上げつつ序言といたします。

 

富野猿賀神社について

船絵馬がまつられている「猿賀深砂大権現」(以下富野猿賀神社)は、中里町富野に所在する天台宗般若寺境内に位置します。般若寺の成立に関しては『新撰陸奥国誌』が「元和中(1615―1624)考弁と云う僧の開基」としていますが、おそらく金木新田の開発が進行するなかで成立し、地域の祈願所になったものと考えられます。

元禄14年(1701)『天台宗諸寺院縁起志』(弘前図書館蔵)には、「般若寺」の記載はないものの、元文元年(1736)に成立した富野村の検地帳(同館蔵)には「自性院」という寺が記されています。約70年後の享和三年(1803)『寺社領分限帳』(国立図書館蔵)には「般若寺」の名があるとともに、前掲の『新撰陸奥国誌』に「天明三葵卯年(1783)七月十一日本道と玄僧中興せり」との記述がみられることから、自性院が一時期無住になったのち、般若寺として再興したとする説もあります。

 般若寺に猿賀堂が勧請された経緯については、文化4年(1807)同寺の住職覚範が建立を弘前藩に出願したところ、同年7月寺社奉行から許可されたという史料が、『中里町誌』において紹介されています。堂社造立の時期について、同書は尾上町の猿賀神社が復興した文政8年(1815)に分霊されたという説を採用しています。堂内には、「航海安全、豊漁満足」を祈願したと見られる船絵馬やその他絵馬額が数多く奉納されており、旧暦8月15日の例大祭は毎年多くの参拝者で賑わっています。

*[引用文献]佐藤 仁 1994「猿賀神社船絵馬群調査報告書」

 

富野猿賀神社の歴史地理的環境

弘前藩は岩木川流域に御蔵を設けて年貢米を納めさせていましたが、それらは春になるといわゆる「小廻し船」で十三湊に輸送され、さらに鰺ヶ沢や北海道松前などに運ばれました。岩木川から十三湊を経て鰺ヶ沢に送る輸送方法は“十三小廻し”と呼ばれました。

岩木川の旧流は、富野付近で大きく蛇行しつつ猿賀神社の西側を流れ、往時は境内から大型船の帆が見えたとされています。また風のないときは綱で曳船をしたとされ、曳船用の道も富野側にあったと伝えられています。

猿賀神社(般若寺)が新田地帯の農民の精神的な拠り所だったことは、般若寺が新田開発の祈願所であったことからも理解されます。一方、船乗りたちの信仰を集めた経緯については記録がなく、不明といわざるを得ませんが、岩木川が十三潟に注ぐ地点は“大湊”と呼ばれ、突風のため船が転覆することが少なくありませんでした。

弘前藩の米を積んで川を下ってきた小廻し船の船頭たちは、川口での安全を船から見える猿賀神社に祈り、いつしか船絵馬を奉納するようになったとは考えられないでしょうか。

 ちなみに現在参詣者たちに分けられている“御札”には、「家運長久・子孫繁栄」のほか「海上安全・大漁満足」8字が上部に記されています。内陸部の神社としては珍しいことであり、この神社に対する信仰の状況を示すものと考えられます。

*[引用文献]佐藤 仁 1994「猿賀神社船絵馬群調査報告書」

 

富野猿賀神社の船絵馬

猿賀神社には88枚の船絵馬が残されています。これらの船絵馬は川船ではなく、北前型弁才船を描いたものですが、内陸部にこれだけの船絵馬が保存されている例は珍しいといえるでしょう。

絵馬中の船体の部分は版画で、肉筆と考えられるのもほとんどありません。船絵馬の流行には、こうした版画による量産体制が背景にあるとも考えられます。構図は横長がほとんどで、縦長のものは2枚のみです。寸法的には5〜7種類ほどに集約され、ある程度の規格性があったことがうかがわれます。 

描かれている船の数は1艘のものが大半を占め、2艘のものが12枚であり、鰺ヶ沢白八幡宮に見られる3艘以上のものはありません。船名や帆の反数は奉納者が記入しますが、船名が記入されていないものや2艘とも同一船名の船絵馬もあります。一方、帆の反数は、最大で26反、最小は12反のものがみられます。江戸時代末期の北前型弁才船の場合、実積石数で前者が1,500石、後者が100石積みに相当します。

 猿賀神社の船絵馬に描かれた帆の反数は14から17反が多く、現存する岩木川の小廻し船の写真も14反のものがみられます。弁才船の場合14反の帆の石高は400石です。文政14年(天保2年・1831)の『十三町家別軒数調書』に記載された小廻し船の石高は120石から450石程度であり、岩木川筋を往来した船と船絵馬の石高は一致するものが多いといえそうです。  

*[引用文献]佐藤 仁 1994「猿賀神社船絵馬群調査報告書」

 

船絵馬の年代と奉納者

奉納された船絵馬のうち最も年代の古いものは天保2年(1831)、最も新しいものは明治43年(1910)です。その内訳は、江戸時代4枚、明治元年(1868)〜10年(1877)10枚、明治11年(1878)〜20年(1887)30枚、明治21年(1888)〜30年(1897)3枚、明治31年(1898)〜45年(1912)2枚となります。

なお年代は記入されていないものの、大区小区制で地名が記されているため、明治5年から10年頃と考えられるものが3枚あります。

また津軽各郡の下に江戸時代の村名を書いている船絵馬は、郡区町村制が施行された明治11年以後、市制・町村制が施行された明治21年にかけての奉納と推測されます。奉納年代が記入されていないものの、この条件に該当する絵馬は7枚あります。

これらを加えると明治10年代に奉納されたものが半数近くとなり、船絵馬奉納の最盛期をしめすものと考えられます。

一方奉納者のわかる船絵馬は66枚で、十三潟水戸口から北側の日本海に面した地域は、北海道の4枚をはじめ東津軽郡1・小泊14・下前4・脇元7・磯松7であり、十三潟方面は、相内1・十三13となります。

一方、猿賀神社の周辺5q程度以内の近隣諸村は、富野4・福浦1・大沢内2・藤枝(桜井)2・中里1・富萢1・繁田1・下繁田1・穂積1となっており、そのほか五大区のものが1枚みられます。

*[引用文献]佐藤 仁 1994「猿賀神社船絵馬群調査報告書」

 

猿賀神社船絵馬の特色

 船絵馬の奉納者は、岩木川上流部が少なく、小泊・十三・北海道方面が卓越します。これらの分布状況は十三湊を利用する船の活動範囲を示すものと考えられます。また脇元、磯松など日本海沿いの村からの奉納は漁民の信仰と考えられるほか、富野周辺の村々から奉納された船絵馬については、一般農民の信仰が含まれている可能性もあります。

年代的な分布については、全国的な船絵馬奉納の流行と期を一にしている一方、終末については、森林鉄道や奥羽線の開通による水上交通の役割低下、とくに和船から洋式蒸気船への転換や水戸口閉鎖などの影響によって、徐々に湊としての機能を低下させつつあった十三湊の衰退などが関連していると考えられます。

また船絵馬の奉納者には、「能登屋」「記国屋」など十三湊の海運業者をはじめ、なかには女性も含まれています。天保2年の船絵馬は「松前住人蒔苗文次郎娘ちよ」の奉納であり、明治10年代の奉納と見られる「中里村荒関トメ女」の船絵馬も残されています。とくに前者は父が船乗りで航海の安全を願っての奉納と推定されます。

このほか年齢の入った男性の船絵馬もあり、厄除け祈願的な要素が込められていると考えることもできます。

猿賀神社の船絵馬は、このように幕末から明治時代にかけての交通史や、経済的変化から民間の生活に至るまで、さまざまなことを物語る貴重な資料といえるでしょう。

*[引用文献]佐藤 仁 1994「猿賀神社船絵馬群調査報告書」