平成17年度春の企画展「中泊町の文化財」出品資料


  資料名 時代 出土地 解説
  有舌(茎)尖頭器(石槍) 縄文草創期(約13,000年前) 小泊横泊海底 横泊海底123mより引き上げられた槍先形の石器。投槍等の先端に装着して、狩猟に用いられたと考えられる。
  土器片錘 縄文前期前葉(約6,000年前) 小泊坊主沢遺跡 土器破片を再利用した漁網錘。両端に縄掛け用の刻み目を有する。小泊地区において古くから網漁が活発であったことを示す。
  石錘(切目石錘) 縄文 小泊坊主沢遺跡 自然石を利用した漁網錘。両端部に縄掛け用の刻み目を有する。刺網・曳網等に装着されたと考えられる。
  深郷田式土器 縄文前期中葉(約5,500年前) 中里深郷田遺跡 深郷田遺跡は、昭和14年(1939)考古学者白崎高保(中里町白崎家の縁者とされる)によって初めて発掘調査が行われ、出土した土器は「深郷田式土器」と命名された。その後も多くの研究者が発掘調査を行い、数々の成果を上げている。 深郷田式土器は北奥羽地方で発展した「円筒土器」の源流であると理解され、全国的に著名である。
  亀ヶ岡式土器 縄文晩期中葉(約2,700年前) 小泊砂山(1)遺跡 木造町亀ヶ岡遺跡出土資料を標式とする縄文晩期の土器。後に宮城県大洞貝塚出土の土器によって、東北地方を中心に分布する。
  砂沢式土器 弥生前期中葉(約2,300年前) 小泊縄文沼遺跡 弘前市砂沢遺跡出土資料を標式とする弥生前期の土器。なお砂沢遺跡では当該期の水田跡が発見され、東北地方北部においても早くから水稲耕作が行われていたことが実証された。
  二枚橋式土器 弥生前期後葉(約2,100年前) 小泊坊主沢遺跡 大畑町二枚橋遺跡出土資料を標式とする弥生前期の土器。津軽・下北両半島部を中心に北海道道南部にも分布する。
  田舎館式土器 弥生中期中葉(約2,000年前) 小泊坊主沢遺跡 田舎館村垂柳遺跡出土資料を標式とする弥生中期の土器。東北地方北部を中心に分布する。
  石偶 弥生 小泊坊主沢遺跡 黒曜石製の人形石器。東北・北海道地方の縄文晩期〜弥生(続縄文)期に散見される。
  管玉 弥生 小泊坊主沢遺跡 碧玉製の管玉。複数を組み合わせて、首飾りや胸飾りとして用いられた。
  動物(クマ意匠)把手 弥生 小泊坊主沢遺跡 クマの頭部を表現したと思われる獣面把手。耳と鼻が表現されている。
  後北C1式土器 弥生後期(約1,700年前) 小泊弁天島遺跡 北海道続縄文後半の土器。後の後北C2-D式に比べて青森県内における出土例は少ないが、この頃から北海道との交流が密接であったことがうかがわれる。
県史跡 中里城遺跡 平安・室町 写真 平安時代のいわゆる「防御性集落」、室町時代の中世城館。平成4年(1992)公有地部分が町史跡に指定され、平成9年(1997)には古代集落跡を復原した「中里城跡史跡公園」がオープンした。また平成15年(2003)には、保存状態が良好なうえ、北奥地方における古代の様相を考えるうえで重要な遺跡であるとの事由から県史跡に指定されている。
  中里城遺跡出土遺物 平安中期(10〜11世紀) 中里城遺跡 土師器坏・小形土器
  折戸遺跡出土遺物(平成9年度調査分) 平安中期(10〜11世紀) 小泊折戸遺跡 土師器・擦文土器・須恵器・支脚
  折戸遺跡出土遺物(平成14年度調査分) 平安中期(10〜11世紀) 小泊折戸遺跡 擦文土器
  須恵器長頸壺 平安中期(10〜11世紀) 中里胡桃谷遺跡 古墳時代中期から平安時代までみられる還元焔焼成による青灰色の焼物。
中泊町有形文化財 海満寺聖観音像 伝平安時代 写真 蝦夷征伐(えぞせいばつ)した際、戦死した兵士の供養のために奉納したと伝えられている。後文政年間(1818〜29)に海底から網に入って上がった観音様(伝承)。海底に長く浸かっていたので流木のように痛々しいが、その顔立ちはとても優しく我々の心をなごませてくれる。
中泊町有形文化財 五林神社五輪塔 鎌倉末〜室町前期 写真 中泊町最古の石造文化財。十三湖周辺には中世の五輪塔が多く残されているが、五林神社五輪塔は大型で、鎌倉〜室町期に造立されたと考えられる。江戸時代の紀行家岡本青鵞は「中通」の中でこの塔や宝篋印塔の存在を記し、菅江真澄は「邇辞貴迺波末」に五輪石が「梵字の形すらやぶれ、まろび、あるははたてり」と述べている。おそらく安藤氏関係の有力者を祀ったものと思われる。
中泊町有形文化財 五林神社宝篋印塔 鎌倉末〜室町前期   中泊町最古の石造文化財。いずれも製作年代は推定。
  冬部製塩遺構 江戸 写真 江戸時代の塩釜。小泊周辺においては、幕末に至るまで盛んに製塩が営まれていたことが各種の記録類から明らかである。
  茶臼 室町 小泊弁天島遺跡 葉茶を挽く石臼。日本に茶が伝来したのは古代であるが当初は医薬として用いられた。室町時代頃には僧侶や武士階級を中心に抹茶の喫飲が広まり、やがて茶の湯の完成に至った。本遺跡における茶臼の出土は、それらの人々が居住していた可能性を示している。
  茶臼 室町 中里城遺跡 葉茶を挽く石臼。日本に茶が伝来したのは古代であるが当初は医薬として用いられた。室町時代頃には僧侶や武士階級を中心に抹茶の喫飲が広まり、やがて茶の湯の完成に至った。本遺跡における茶臼の出土は、それらの人々が居住していた可能性を示している。
中泊町有形文化財 弘誓寺懸仏 室町 中里弘誓寺 揚柳観音を御正体とする鋳銅製の懸仏。明治30年代尾別弘誓寺のある台地西麓の苗代から出土した。揚柳観音は、三十三観音の筆頭におかれる観音で、通常は右手に揚柳枝を持ち、左手を乳の上に当てた二臂像で表現される。平安時代末頃に出現した懸仏は、南北朝から室町時代にかけて盛行し、青森県内では50面ほど確認されている(青森県立郷土館 1990『青森県中世金石造文化財』)。
中泊町有形文化財 弘誓寺如来座像 室町 複製 天台宗解脱院弘誓寺の本尊。合掌姿の両腕並びに膝前部は近世以降新しく補修されているが、主要部の制作年代は室町時代と推定される。本来は弘誓寺北麓を西流する尾別川の上流、滝の上に位置した「解脱庵」の本尊であったと伝えられる。解脱庵の創建時期などは不明であるが、弘誓寺に享保15年(1730)の紀年銘のある解脱庵双盤、宝暦4年(1754)の紀年銘のある解脱庵梵鐘が残されていることから、廃寺の時期については少なくとも18世紀後半以降であることが推定される。なお解脱庵のあったとされる滝付近からは、茶臼が発見されたという伝承も残されている。
中泊町有形文化財 舫岩 近世〜明治(中世からという伝承もあり) 写真 この舫岩は、主に中世のものが多く出土している弁天島遺跡の眼下ある。この遺跡の東側の小さく内湾になっている大澗海岸の海中や岸壁に、この舫岩はが今なお残っている。これは停泊する船を繋ぎとめるために岩礁に穴を掘りあけ、そこに船から投げた綱を結びつけた。
中泊町天然記念物 般若寺イチョウ 近世 写真 樹高:約25m/推定樹齢:300年。
富野に所在する天台宗富野山般若寺中庭の一角に佇立する中里町内最古のイチョウ。かつては、同寺境内を囲んでイチョウ・ケヤキ・マツの三樹が植えられていたが、いずれも倒壊、現在ではイチョウのみが現存する。これらについては、金木新田の開発にともなって、岩木川の治水工事を行った弘前藩四代藩主信政が、工事の完成を記念して自ら植えたとする伝承が残されている。
県重宝 円空作木造男神像 江戸:寛文5年(1665)か寛文7年(1667) 複製 長い間神棚に祀られていたので、像全体が黒色だが、鉈彫(なたぼり)の荒彫りと木を神として木の精を重んじて造られ、目尻がややつりあがり、神像として大変格調の高い作品である。北日本に一体のみで貴重な存在である。
中泊町有形文化財 貞享の絵図 江戸:貞享元年(1684)   貞享検地に先駆けて、弘前藩が作成を命じた絵図。中里村・漆新田・五輪村・森合地子新田の4ヶ村で家数83軒、漆新田の西には一里塚が、中里村の北には中里城が、五輪村の北には林の形で五林館が描かれている。
  陸奥国津軽郡田舎庄中里村御検地水帳(複製) 江戸:貞享4年(1687)   貞享検地の結果を記した税台帳。田畑・屋敷の場所、面積、石高、所有者名が記されている。巻末には、税免除地として「古館」「神明社地」「荒神社地」等が挙げられている。
  津軽信政黒印知行充行状半三郎宛/浜館家由緒書 江戸   弘前藩四代藩主信政が金山村(五所川原市)の半三郎に対して、同村30石の領地を認めた公文書。中里の濱館家に伝わったものであり、同家「由緒書」によれば、正保4年(1647)に「小知行派」を命じられ、寛文元年(1661)30石を賜った。
  津軽信政黒印知行充行状小山内主善宛控 江戸:寛永10年(1633)   弘前藩三代藩主信義が、小山内主善なる人物に中里地域に知行を与えたことを示す文書の写しであるが、「宮之沢」「八幡」「薄市村」「田之沢」の地名が見える。
知行之目録
高三拾石者    荒  宮之沢之内八幡□上ニ有
高四拾五石者  同  薄市村之内田之沢ニ有
高五石者      同  八幡之上之野ニ有
高合八拾石者
右令扶助所也
但三年之間可為無役百姓等
才覚次第在付可申者也
寛永十年
五月廿七日 御実名 御墨印
中泊町有形文化財 貞伝作鋳銅阿弥陀如来立像 江戸:享保15年(1730)   今別町浄土宗本覚寺住職貞伝(1690-1731) が製作した鋳銅仏。享保12年(1727)自分の死期を予知した貞伝は、古鏡や銭貨の寄付を仰ぎ、寄付で得た青銅で高さ3mの卒塔婆を鋳造させた(現在県重宝)。貞伝仏はこの時余った地金で作ったものであり、寸法1寸2分の阿弥陀仏である。弘前の誓願寺本堂復興のため、浄財と引き換えに信者に配られたという。そのため、津軽一円に貞伝仏は分布し、お守り用の携帯仏などに広く使われた。(青森県立郷土館 1996 「特別展図録 西・北津軽の仏たち」)
  銅鏡 江戸    
  解脱庵双盤 江戸:享保15年(1730)   天台宗解脱院弘誓寺の北麓を西流する尾別川の上流、滝上に所在したとされる「解脱庵」什器。解脱庵の創建時期などは不明であるが、弘誓寺に室町時代の造仏が推定される木造如来座像、宝暦4年(1754)の紀年銘のある解脱庵梵鐘が残されていることから、廃寺の時期については少なくとも18世紀後半以降であることが推定される。
中泊町有形文化財 正行寺半鐘 江戸: 写真 大漁、無病息災祈願として信徒寄進(河野七兵衛、河野長太郎)
中泊町有形文化財 正行寺鰐口 江戸:元文2年(1737)   追善供養のため檀徒(だんと)熊木が奉納したもの。
※鰐口(わにぐち)=社殿、仏堂前の軒下に吊るす。金鼓(きんこ)。
  法華宗太鼓 江戸:天保7年()   中里在住の法華宗檀徒に伝わったものであり、(右)天保7年丙申八月歳 (左)荒木関 金七 と記されている。天保年間は飢饉が頻発し多数の餓死者が出たことから、それらを供養するために製作されたとも考えられる。
中泊町有形文化財 打敷蝦夷錦 江戸:天明2年(1782)   山丹(さんたん)交易を介し、アイヌ民族の手を経て松前藩に渡り、各地へ運ばれた絹織物、牡丹文(ぼたんもん)の赤字錦内敷。
  尾別薬師堂俳句奉納額 江戸:嘉永5年(1848)    
  平尾魯仙画奉納絵馬 江戸:嘉永元年(1852)   平尾魯仙は文化5年(1808)弘前に生まれた。通称八三郎、別号は蘆仙・魯遷・宏斎。国学者で俳諧や絵画をよくし、「谷の響」「合浦奇談」「松前紀行」「宏斎抄誌」などを記し、『合浦山水観』が残されている。中里村には安政2年(1855)松前に渡る際通過したと推測され、中里神明宮に奉納された額は、その際に描いたものと思われる。
中泊町有形文化財 猿賀神社船絵馬群 天保〜明治年間   東廻り・西廻り海運の船頭たちは、寄港地の寺社に船絵馬を奉納して航海の安全を祈った。岩木川筋にある富野の猿賀神社には、江戸時代後期から明治時代末にかけて奉納された船絵馬が、88枚保存されている。内陸部の社であり、日本海岸の湊で船乗りが奉納したものとは違う目的を持っていたと思われる。この神社の船絵馬は、境内の近くを流れる岩木川を上下する小廻船の人々に関係深いと考えられる。また一般の農民が奉納したものもあり、民俗史料として貴重な存在である。
中泊町有形文化財 寺受証文 江戸:慶応元年(1865)   門徒が旅先で病死した時など、真言の作法によって埋葬してくださいという門徒の身分証明書である。小泊の久左衛門(加藤久六家)が持参したものである。※明治6年(1873)ころまでキリシタンは禁制だったから、上陸するときや関所などで身分を証明するために提示した。
中泊町有形文化財 熊野宮船絵馬群 明治年間   海上安全を祈願して奉納した。
中泊町有形文化財 蓑虫山人画岩手山之図 明治年間    
中泊町有形文化財 蓑虫山人画宝船図 明治年間    
中泊町有形文化財 蓑虫山人画瀧見観音像図 明治年間    
中泊町有形文化財 蓑虫山人画大仙山図 明治年間    
中泊町有形文化財 蓑虫山人画大日本富山図 明治年間    
中泊町有形文化財 蓑虫山人画屏風 明治年間    
中泊町有形文化財 蓑虫山人画無言行中之図 明治年間    
  蓑虫山人画十和田湖之図 明治年間    
  蓑虫山人画山水図 明治年間    
  蓑虫山人画鳥図 明治年間    
  蓑虫山人画山水図 明治年間    
  蓑虫山人画文房図 明治年間    
  蓑虫山人画山水図 明治年間    
  蓑虫山人画文房図 明治年間    
  蓑虫山人画山水図 明治年間    
  蓑虫山人画養老泉之図 明治年間    
  蓑虫山人画八耕田山図 明治年間    
  蓑虫山人画山水図 明治年間    
  蓑虫山人書 明治年間    
  蓑虫山人画寒山拾得図 明治年間    
  蓑虫山人画書 明治年間    
  蓑虫山人画鯉魚図 明治年間    
  蓑虫山人画書 明治年間    
  蓑虫山人画文房図 明治年間    
  蓑虫山人書 明治年間    
  蓑虫山人画鯉魚図 明治年間    
  蓑虫山人画国弊小社岩木山神社図 明治年間    
  中里なにもささ踊り 江戸 写真 中里地区の盆踊り。現在は流し踊りが主体であるが、かつては灯籠がつるされた柱を中心に、中の輪の踊衆が上音頭を唄い、外の輪の踊衆が下音頭を掛け合いながら踊られたものとされる。鎌倉時代末期、山王坊に滞在した弘智法印という和尚が詠んだとされる「なにもささ」という歌にちなんで創始されたとする説と、寛文年間(1662〜73)旅の武士が薄市山実成寺(現在の弘法寺)に立ち寄ったのを契機として創始されたとする二説がある。なお「なにもささ」については、僧侶が袈裟をかけて、死者を供養する意味とされているが詳細は不明である。
  中里なにもささ踊り衣装一式 現代    
  武田虫送り 現代 写真  
  内潟荒馬 現代 写真  
  蒔絵火鉢      
中泊町有形文化財 船鑑札 明治4年   湊勤番所跡の藤丸家「和光丸」使用
中泊町有形文化財 船鑑札 明治6年   湊勤番所跡の藤丸家「和光丸」使用
  力石 近現代   宮野沢地区で力試しに用いられた石であり、四十三貫(約161s)という重量ならびに担ぎ上げに成功した人々の氏名・身長・体重等が刻まれている。
北郡 中里町 四十三貫(約161s)
   外崎九左ェ門 五尺四寸(約164p)
      文■(久ヵ)■年生 二十四貫(約90s)
   ■■■吉 五尺五寸(約167p)
      明治十一年生 二十■貫
   鬼ノ里七五郎 五尺四寸(約164p)
      明治四十年生 二十四貫(約90s)
  近現代    
  仕事着一式 近現代    
  古文書 江戸    
中泊町有形文化財 ドゲ船(キツ船) 近現代 写真 秋元勇太郎が造船させ数代にわたり使用した。最後に藤丸良太郎が使用し、昭和52年(1977)歴史を語る会に寄贈した。磯廻り用として最適で、波や風に強く、ゆれが少ないのが特徴。小泊独特の舟である。
中泊町有形文化財 海満寺勢至菩薩立像 近現代:大正10年(1921) 写真 観音菩薩像と同様で肩から胸、腰から膝、足の曲線がすばらしい。合掌している。なお、中村家は輪島出身の仏師一家で父増太郎、同子喜一郎・慶三郎も仏師である。親子競作
中泊町有形文化財 海満寺観音菩薩立像 近現代:大正10年(1921) 写真 地元の仏師だけに一刀一彫に精魂込めた力作である。前かがみの来迎形の脇侍である。
※金箔、立像、玉眼嵌入(ぎょくがんかんにゅう)。蓮台持参。
中泊町有形文化財 海満寺阿弥陀如来立像 近現代:昭和29年(1954) 写真 昭和29年火災で従来の本尊(中村増太郎仏師作)が焼失したを継いで、新たに京仏師吉岡宗雲(近代彫刻の大家高村光雲の門人)が造仏している。※金箔。立像、玉眼嵌入(ぎょくがんかんにゅう)。現在のことにわたりますが、ついこの間まで家にいた吉岡宗雲君は、京都高辻富小路の仏師の倅 高村光雲著『幕末維新懐古談』に掲載
中泊町有形文化財 網おこしはやし 近現代 写真 元禄年間(1688〜1704)から鰊(にしん)漁が盛んになり、安永6年(1777)から慶応5年(1865)が最盛期で西浜でも沢山とれた。鰊網おこしはやしは、漁夫への(景気?)活気づけと作業をスムーズに進めるための漁労歌で、勇壮(ゆうそう)な中にも哀調(あいちょう)がある。構成は「網おろし」「船漕ぎ」「網おこし」「沖揚げ音頭(タモ返し含む)」「子はたき」「流し櫂(かい)」「網子別れ(あごわかれ)」からなっている。
  大漁旗 近現代    
中泊町有形文化財 下前権現崎太刀振り 近現代 写真 昔松前で岩木山と権現崎神様に太刀振りを奉納したところ大漁が続いた。下前でもまねて奉納したところ大漁となり、浜が活気づいたということから行われている。大正、昭和と松前へ家族ぐるみで出稼ぎに行っていたところ、踊り方を習得したという。昭和8年から下前全村民が参加し大漁祈願祭として海の神である権現崎の尾崎神社に奉納している(8月15日、16日)。
  下前権現崎太刀振り太刀 近現代    
  野沢如洋画二宮金次郎 近現代   かつて中里小学校玄関に掲げられていたもの。野沢如洋(1865〜1937)は弘前出身の日本画家であり、平尾魯仙の弟子三上仙年に師事した。その山水画は橋本雅邦や竹内栖鳳から高い評価を得、円山派を加味した独自の水墨画を展開した。
中泊町有形文化財 権現太鼓 近現代 写真 不漁や海難事故などで困っている人や村を不幸から幸福へ導いてくれるのが権現である。権現太鼓は、神仏への感謝の意味と、衆生を救済し、村があずましい村になるように祓い清める。太鼓から流れる「音」そのものが「神」であり「権現」である。
※小泊村制施行百周年を記念して結成された。
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