誰も知らない中里B 鎌倉時代の「五林」〜大導寺伝説〜
 
 

 
鎌倉時代初頭、衣川で敗死したはずの源義経が、実際は津軽地方まで逃げ、さらに北方へ落ちのびたとするいわゆる「義経伝説」は、青森県内各所に存在するが、中里町にもいくつかの伝承が残されている。

ひとつは、五林神社五輪塔にまつわる「大導寺伝説」である。五林神社の由緒について、『中里町誌』は 「奥州に逃れ来る源義経公の従者大導寺力は津軽三厩にて主人公と別れ、その地に止まりたるも、中里部落にさまよい来り、部落の娘「オリ」と同棲せしも、頼朝勢に発見され、大導寺沢に籠れども衆寡敵せず討死せりと、身持となれる「オリ」は妊らめる子と共に自害せり。その臨終の言葉に「妾は末永く此の地の産神とならん」と、即ち五輪塔を中心に左右に宝筐印塔を建立。現在は社殿を新築して石塔を安置している。」 と伝える。


一方宮野沢地区には、源頼朝を祭神とする白旗神社が存在する。同神社は全国で八〇社ほど存在し、源義経など源氏の武将や、源氏の氏神である八幡大神(誉田別命)を祭る場合もみられるが、基本的には宮野沢のように源頼朝を主祭神をとする社が多い。つまり中里においては、旧敵同士を祭る五林神社と白旗神社が、約2キロの距離を隔てて対峙していることになる。

これらの由緒の真偽については定かではないが、五林神社御神体として祭られている五輪塔と宝篋印塔は、中世の墓碑あるいは供養塔であり、鎌倉時代から室町時代前期にかけて造られたことが推定されている。また大導寺力が隠れ住んだとされる「大導寺屋敷」は、中里川上流の山深い台地にある。


かつて「大導寺屋敷」が開墾された際に、礎石のような石が出土したとされるほか、周辺の「寺屋敷」からは懸仏破片が、「喜丈上げ」からは宝篋印塔塔身(所在不明)、「ユズリ平」からは信楽の小壺が発見されている。 「大導寺屋敷」一帯に中世の遺物が濃密に分布することから何らかの勢力が存在したことは明らかである。いずれも時期が不明なため、大導寺伝説との関連については不明であるが、実は大きな手がかりが、今から五十年ほど前に発見されていたのである。


昭和三五年五月、五林在住の古川荘三郎氏は、五林神社西側の水田から、灰色に焼きしまった壺を掘りあげた。長らく古代の須恵器と考えられていたが、近年鎌倉時代初期の珠洲焼であることが判明した。珠洲焼は、能登半島珠洲市一帯で生産された陶器であり、中世を通じておもにに日本海側に流通した焼き物である。壺は、口縁部を意図的に打ち欠いており、蔵骨器として利用されたものと推定される。あるいは蔵骨器を埋葬し、その墓碑として五輪塔が建立されたことも考えられる。


大導寺力・オリが伝説に過ぎないとしても、鎌倉時代はじめの五林には、珠洲焼壺に納骨され、五輪塔を建立するような有力な武士階級が実在していた可能性が高い。このほか深郷田の一本松遺跡(深郷田館)と中里城遺跡でも、鎌倉時代の考古資料が発見されており、従来厚いベールに隠されていた鎌倉時代の中里が、徐々に姿を現しはじめている。