誰も知らない中里C 南北朝の動乱〜中里地域の豪族〜
 
 

 
日本最初の武家政権として盤石の体制を築きあげた鎌倉幕府であるが、元寇を転機としてしだいに衰退への道を歩む。さらに津軽安藤氏の内紛による津軽大乱(一三二二〜二八)の処理の不手際によって、幕府の権威は回復不能なまでに失墜した。

そして元弘三年(一三三三)新田義貞の鎌倉攻めにより、執権北条高時は自害し、鎌倉幕府は滅亡するのである。混乱は津軽地方にも波及し、豪族たちは互いに朝廷方と幕府方にわかれて争ったが、翌建武元年(一三三四)には、朝廷方の勝利のうちに終結する。

この年の冬、朝廷方の国代南部師行は、降伏した武将の名簿を陸奥国司北畠顕家に提出した。著名な『津軽降人交名注申状』(南部家文書)である。上段には五〇人あまりの投降人、下段には投降人を預かった武将の名が記されている。

このなかで最も多い十七人を預かっているのが、安藤宗家の安藤又太郎宗季である。安藤宗季(別名五郎三郎季久)は家督を巡って津軽大乱を引き起こした当事者であり鎌倉幕府の裁断によって宗家となった人物であるが、幕府が傾くとあっさりと朝廷側に転向したようである。


安藤宗家は、その後足利尊氏が建武新政府から離反すると、朝廷方を見限って尊氏に味方し、室町幕府と密接な関係を築く。南北朝の混乱を巧みに乗り切って勢力を伸展させ、後には「日之本将軍」を呼称するほどの威勢を誇るのである。


ところで安藤宗季に預けられた武将の中に、「新關又次郎」ならびに「乙邊地小三郎光季」という二人の名が見える。名前から前者が中里城主、後者が尾別城主と推定されている。この場合の「中里城」は現在の中里城遺跡もしくは五林遺跡(五林館)、「尾別城」は胡桃谷遺跡(尾別館)と考えられる。

 

胡桃谷遺跡は、現在の弘誓寺ならびに津軽三十三観音十四番札所「尾別観音堂」が所在する台地に所在する。「尾別」は、古文書や絵図において「乙辺地」「尾辺地」などと記述される場合もみられることから、乙邊地氏と関連がありそうであ

る。なお『中里町誌』では、乙邊地光季が安藤宗家と同じ「季」の字を名乗っていることから安藤氏の一族と推定している。
新關・乙邊地両氏が実在したことは確実であるが、残念ながら中里城・五林・胡桃谷の各館跡においては、両氏が活躍した頃(鎌倉後期〜南北朝期)の遺物は全く出土していない。


したがって、両武将と中里を結びつける具体的な証拠はほとんど見つかっていないが、五林館周辺にある五林神社五輪塔は南北朝頃の建立とも考えられている。あるいは新關又次郎に関連するものかもしれないが、当該期の中里についてはいまだ謎の部分が多い状況である。