誰も知らない中里D 謎の中世寺院〜室町時代の尾別〜
 
 

 
南北朝時代、乙邊地小三郎光季なる武将が拠ったとされる尾別館(胡桃谷遺跡)であるが、尾別周辺には、むしろ安藤氏が活躍した室町時代ころの遺物が濃厚にみられる。

尾別館跡には、空壕跡が残されているとともに、周辺から平安時代の土師器・須恵器・擦文土器、鉄滓(時期不明)、室町時代の珠洲擂鉢(能登産)破片が出土している。平安時代には防御性集落、室町時代には臨時的な城館として利用されたと考えられる。

また明治三〇年代には、尾別館跡西麓の苗代から、直径十二pほどの懸仏が出土した。現在「弘誓寺懸仏(中里町指定文化財)」として知られるこの懸仏は、揚柳観音を祀ったものであり、室町時代のものと推定されている。

懸仏は、寺社の本殿などにつり下げて、礼拝の対象としたものであるが、南北朝から室町時代にかけて流行し、青森県内では五〇面ほど確認されている。津軽地方では、弘前市周辺、西海岸、十三湖周辺に多くみられ、板碑や五輪塔・宝篋印塔といった中世の石造文化財の分布に共通する点が多いようである。

とくに西海岸・十三湖周辺は、中世安藤氏の支配拠点であることから、弘誓寺懸仏も、安藤氏と関連のある人々によって残されたものかもしれない。

尾別館跡にある天台宗弘誓寺(海野圓澄住職)の本尊「如来坐像(中里町指定文化財)」も、近年の調査によって、室町時代ころに製作された北津軽郡では最も古い中世仏と評価されている。高さ四〇pに満たない小仏であるが、現在に至るまで数奇な運命を辿ってきた。

同像は、元々弘誓寺北麓を西流する尾別川の上流、滝の上に位置した「解脱庵」の本尊であったと伝えられている。同庵が廃されて後は、尾別村庄屋古川治五兵衛方に預けられ、やがて昭和四年(一九二九)観音霊場寺(弘誓寺の前身)に安置された。その翌日に古川家は火災で全焼、如来座像は危うく難を逃れたという。

解脱庵の創建時期などは不明であるが、弘誓寺に享保十五年(一七三〇)の紀年銘のある解脱庵鰐口、宝暦四年(一七五四)の紀年銘のある解脱庵梵鐘が残されていることから、廃庵の時期については少なくとも江戸中期以降であることが推定される。なお解脱庵のあったとされる滝付近からは、茶臼が発見されたという伝承も残されており、室町時代に何らかの宗教施設があったことが推定される。

これらから尾別地域には室町時代の城館、ならびに寺院等の宗教施設が存在した可能性が高く、安藤氏と関連のある豪族の存在が見え隠れするのである。