誰も知らない中里E 安藤氏と中里〜中里地域の城館〜
 
 

 
室町幕府との関係を軸に、津軽地域の支配を進めた安藤氏の勢力は、室町時代中ごろ(十四世紀後半〜十五世紀前葉)頂点に達する。室町幕府に関する史書『後鑑』には、応永三十年(一四二三)四月安藤陸奥守が、新将軍足利義量に馬二〇匹・鳥五千羽・鵞眼二万匹・海虎皮三〇枚・昆布五百把を献上したことが記されている。「鵞眼」は銭の意であり、「海虎皮」は北海道東部・千島列島ほかに生息するラッコの皮とする説がある。

これらからは安藤氏の豊かな財力と、十三湊を拠点とする日本海交易によって、北方産物を独占的に入手していたことが理解される。しかしながらこの時期を前後して、南部氏の津軽進出が強まり、勢力を誇った安藤氏も永享四年(一四三二*嘉吉二年(一四四二)とする説もある)には拠点十三湊を攻められ、北海道へと敗退する。

こうした安藤氏と南部氏の抗争のなかで築かれたと考えられる中世城館が、十三湊周辺には数多く存在する。小泊柴崎城・相内唐川城・車力新館(塚野沢遺跡)・今泉神明宮館・高根黒崎館・尾別尾別館(胡桃谷遺跡)・中里城・中里五林館(五林遺跡)などである。遺物が全く出土していない城館もあるが、唐川城・中里城・五林・胡桃谷などの遺跡からは、十四世紀後葉から十五世紀前葉にかけての遺物が出土している。

時期的には、南部氏に攻められた安藤氏が、北海道に撤退するまでに相当することから、これらの遺跡は、対南部氏戦に構築された臨時的な城館とも考えられる。いずれも平安時代には、空壕や柵によって防御された集落であった遺跡であるが、この時期には中世城館として再利用されている。


唐川城の近くには、中世の宗教施設山王坊が存在していたことが知られている。同様に尾別館付近には、解脱庵があったことは前回述べたとおりである。中里城遺跡の東方二キロにも、「寺屋敷」と称される場所があり、付近から懸仏・宝篋印塔・信楽焼の小壺が出土している。また五林館の南方には五林神社があり、五輪塔・宝篋印塔が祀られている。このように当時の城館は、何らかの宗教施設とセットになる例がみられる。

陸奥国津軽郡田舎庄御検地水帳(弘前市立図書館蔵)
十三湖周辺の中世城館では、安藤氏の撤退以後の遺物が見つかっていないことから、そのまま廃城となったと考えられる。江戸時代前期に製作された「陸奥国津軽郡田舎庄御検地水帳」(一六八七年作製・弘前市立図書館蔵)には、「古館」という名称で、それぞれ中里城・深郷田館・尾別館に比定される記載が見られ、「除地」の扱いを受けている。

「除地」とは租税を免除された土地で、寺社の境内や特別由緒のある場所などが相当することから、少なくとも江戸時代前期には古城跡として認識されていたとともに、聖地に近い扱いを受けていたことがわかる。