誰も知らない中里F 空白の戦国時代〜安藤氏撤退後の中里〜
 
 

 
安藤氏(下国)が、拠点十三湊を南部氏に攻められ、北海道に追われた経緯については、『満済准后日記』ならびに『新羅之記録』に記録されている。

前者は、足利将軍の信任が厚く、後世「黒衣の宰相」と称された、京都醍醐寺の座主満済が記したものである。同日記は「(永享四年(一四三二))奥ノ下国与南部弓矢事ニ付テ、下国弓矢ニ取負、エソカ島ヘ没落云々、仍和睦事連々申間、先度被仰遣候処、南部不承引申也」と延べ、南部氏との戦で安藤氏が負けて蝦夷島へ逃れたものの、幕府の調停によって南部氏は不承不承和睦したとする。

一方松前藩の事績を記した後者には、「嘉吉二年秋攻破十三之湊而乗取津軽、盛季没落而雖左右舘、籠以為無勢不克防戦、被追出去小泊之柴舘」「亦其以後嘉吉三年冬、下国安藤太盛季落小泊之柴舘渡海之後」とあり、嘉吉二年(一四四二)秋に十三湊を攻められた安藤氏は、小泊の柴舘に撤退、さらに翌年冬には、北海道へ落ち延びたとする。


南部氏が十三湊を攻略した時期について、二つの記録には約十年の食い違いがみられる。いずれかが正しくもう一つは誤りとも考えられるが、近年は二度にわたって戦いがあったとする説が有力である。つまり永享四年(一四三二)北海道へ敗退した安藤氏は、幕府の仲介によって一端は十三湊に戻ったが、嘉吉二年(一四四二)ふたたび南部氏に攻められ、北海道へ退転したと解釈するものである。

この解釈を裏付けるように、十三湊遺跡では、あちらこちらから焼けた石や陶磁器がまとめて捨てられたような状態で見つかっている。発掘担当者の榊原滋高氏(市浦村教委)によれば、焼けた石は屋根を押さえる葺き石の可能性があるという。また廃棄された陶磁器も、永享年間以前のものであることから、和睦によって北海道から戻った安藤氏の勢力が、南部氏との戦いによって焼け落ちた建物を片づけた痕跡ではないかと推定されるという。

津軽郡中名字に記載された村々(佐藤仁氏作図)


そうした十三湊再生の痕跡も、二回目の攻撃以降は全く見出されなくなる。陶磁器等を用いる階層が十三湊から姿を消してしまったかのように、嘉吉年間以降の遺物は全く出土しなくなるのである。 以上の状況は中里地域においても同様である。安藤氏と南部氏の抗争の最中の陶磁器は、城館跡を中心に少なからず出土しているが、二度目の安藤氏撤退以降の遺物は全く見あたらない。

一方このころから浪岡城(浪岡町)、飯詰城・原子城(五所川原市)、種里城(鰺ヶ沢町)等南部氏系と目される城館から出土する陶磁器が目立ってくる。津軽地方の支配勢力が安藤氏から南部氏に移り、陶磁器の流入ルートも十三湊から鰺ヶ沢や油川に代わったことを意味するのであろう。

天文年間(一五三二〜五五)に浪岡の北畠氏が編んだされる『津軽郡中名字』には、津軽の地名が数多く記されているが、十三湊周辺の地名は、僅かに「十三湊」「誘松(磯松)」「鮎内川(相内)」程度であり、中里地域に該当する地名は全く見られない。十三湊周辺の空白の時代は、十五世紀半ばから十六世紀後葉まで、戦国時代を通じて継続する。岩木川水運が活性化し、十三湊周辺がふたたび歴史の表舞台に登場するのは十六世紀末まで待たなければならないのである。