誰も知らない中里G 開拓の拠点・薄市〜近世社会の幕開け〜
 
 

 
十五世紀前半安藤氏の撤退後、久しく南部氏の支配下に置かれた津軽地方であるが、その間の中里地域の様子についてはよくわからない。

約一世紀半、戦国時代を通じて歴史上の空白が続く。それは中里地域が無人の地になったことを意味するものではなく、歴史資(史)料に痕跡をとどめない人々の活動が営々とあったものと考えられるが、そうした人々の生活が考古学・文献上に具体的に現れるのは十六世紀末のことである。

津軽地方では、大浦為信が南部氏ほかの豪族を次々と攻略し、独立を果たしつつあったこの時期、中央では織田信長のあとを受けて天下統一を果たした豊臣秀吉が、全国的な「刀狩」や「検地」、すなわち兵農分離政策ならびに経済政策を押し進めていた。いわゆる「太閤検地」は津軽地方にも及び、天正一八年(一五九〇)加賀金沢城主前田利家らが一万人の軍勢とともに訪れ、四ヶ月にわたって検地を行っている。

同検地については文禄元年(一五九二)に行われたとする記録もあるが、いずれにせよ津軽領は百三十三ヶ村四万五千石余りと認定された。中山山脈西麓の下之切道沿いでは、高野村・原子村・神山村・金山村・金木村・己来市(喜良市)村とならんで薄市村一五三石一斗が見えるという(中里町誌)。

陸奥国津軽郡之絵図(模式図)角川地名大辞典を改変

また慶長年間には「実成院日光」という僧が弘前より薄市に移住し、「薄市山実成寺(実相寺とする説もある)」を開いたとする記録や、金木町雲祥寺も元々は薄市にあったとする伝承も残される。なお、雲祥寺は正保二年(一六四五)金木へ、実成寺は延宝(一六七〇年代)の頃中里へ移って弘法寺になったとされる。これらの所伝は、薄市村が江戸時代初頭にはすでに相当開発が進み、人口も多かったことを物語る。

薄市以外の村については、やや登場が遅れる。博物館所蔵の「津軽信義黒印知行充行状控」は、寛永十年(一六三三)弘前藩三代藩主信義が、小山内主善なる人物に中里地域に知行を与えたことを示す文書の写しであるが、「宮之沢」「八幡」「薄市村」「田之沢」の地名が見える。また、寛永十七年(一六四〇)津軽信義が家老津軽百助(信隆)に四十八ヶ村に五百石の知行を与えたことを示す「津軽信義黒印知行充行状(国立史料館蔵)」には「薄市村」とともにはじめて「中里村」が登場する。

「陸奥国津軽郡之絵図(青森県立郷土館蔵)」は、幕府に命じられた弘前藩が正保二年(一六四五)に製作した領内図の写しであり、当時存在した村々が詳細に描かれている。中里地域では、薄市・尾邊地(尾別)両村が古村扱い、今泉・中里・宮野澤・新田八幡(深郷田)各村は「新田」と記されている。また十三湖は加瀬(嘉瀬)村のあたりまでひろがり、薄市・尾邊地村は湖岸であったことがうかがわれる。戦国時代衰微した十三湊は、この時期日本海と岩木川を結ぶ中継湊として息を吹き返すが、薄市村もおそらく良好な船着場として、舟でやってきた人々の玄関口の役割を果たしていたと考えられる。

寛文年間田茂木を開いた坂本弥左衛門・鈴木治五左衛門・福士長兵衛、金木村を開いた櫛引甚左衛門、小田川村の古川角左衛門、野崎村の三上九郎衛門等は、いずれも薄市村から移ったと伝えられる(中里町誌)。津軽の他地域はもちろん、北海道・南部あるいは北陸や出羽などを含めた津々浦々から新天地を求めて移住してきた人々は、薄市村を拠点として新たな開拓地に向かったのである。