誰も知らない中里H 絵図に描かれた中里村〜農耕社会の景観〜
 

 
「薄市村」に遅れること半世紀、寛永十七年(一六四〇)はじめて史料に登場する「中里村」はどのように発展してきたのであろうか。

指標のひとつは、村全体の生産量、すなわち石高の推移である。中里村の石高が具体的にわかる史料は、正保二年(一六四五)「陸奥国津軽郡之絵図(青森県立郷土館蔵)」が最初であり、そこでは新田ながら三百六十二石と記載されている。

一方、貞享四年(一六八七)の検地帳「陸奥国田舎庄中里村御検地水帳(弘前市立図書館蔵)」では九〇九石と記載されていることから、およそ四〇年間で二.五倍になったことがわかる。

急成長を遂げた中里村の様子は、博物館所蔵の「貞享の絵図(中里町指定文化財)」に詳しい。弘前藩は、貞享検地に先だって、各村の庄屋に村の絵図や戸数などを書上げさせたが、同絵図はその写しと考えられている。

絵図は「中里村」を中心に、東を上にして描かれている。右上には「家数八十三軒」とあり、うち「本村」(現在の向町)が二十五軒、「裏屋(借家)」五軒、本村から分かれた「枝村」は五十三軒と記されている。

続けて「貞享元年三月晦日 庄屋八右ェ門」とあることから、絵図の作成者は豪農として知られる加藤家初代八右衛門であることがわかる。

八右衛門はもともと能登国正院村(石川県珠洲市)の海運商であり、寛文二年(一六六二)中里村へ移住したとされる。酒屋や材木商を営みながら水田の開拓に従事し、代々奇数代は八右衛門、偶数代は八九郎を襲名した。

「貞享の絵図」模式図

絵図の南端には宮野沢川、西端には「福甲田潟」、北端には「森合地子新田(平山地区)」、東端には中里川の上流「無澤嶽(袴腰岳ヵ)」が描かれており、これらの内側が「中里村」の範囲であったことがうかがわれる。「福甲田潟」は古十三湖の名残であり、現在の国道あたりまで汀線が迫っていたとも考えられる。なお、地子新田というのは畑地のみの新田である。

中央には、南から北に向かう街道が描かれている。宮野沢川と枝村「漆新田(派立地区)」の間には十二本の堰が流れ、橋が架けられている。八番目の橋付近(中里交番付近ヵ)には一里塚があり、「宮野澤」「五輪村」へ分かれる十字路を過ぎると「漆新田」である。「五輪村」は現在の五林地区であり、五林神社に祀られている五輪塔に由来する地名であったことがうかがわれる。

「漆新田」を過ぎると、「溜池(わんぱく広場)」を経て、本村「中里村(向町地区)」である。東方の山手には「寺屋敷(弘法寺)」「伊勢宮地(旧神明宮)」「古城(中里城遺跡)」があり、西側には「荒神宮地」や、現在では見あたらない山々が描かれている。あるいはこの山が、かつて十三湖干拓事業の際、土取りによって消滅したとされる「まぎの坂」であろうか。中里川を越えると「森合地子新田」であり、東には「薬師堂」「御鳥屋(幕府献上用の鷹の捕獲場所)」が見える。

「貞享の絵図」は、細部を検討すれば不正確な部分も少なからず見受けられる。しかしながら、本村を中心に、用水が網の目のように延び、枝村・寺社・溜池が同心円状に分布する姿は、大枠においては江戸時代前期の中里地域の様子を如実に伝えていると考えられる。