誰も知らない中里I 金木新田の村々〜水害との戦い〜
 

 
正保二年(一六四五)制作の「陸奥国津軽郡之絵図(青森県立郷土館蔵)」には、「金木新田」すなわち現在の武田地区の村々は描かれていない。金木新田が歴史上に登場するのは、明暦年間(一六五五〜五七)以降のことである。

明暦元年深郷田村の石川彦左衛門が川内村(現在の豊岡北部)、葛西甚兵衛が豊岡村を拓いたのを皮切りに、今岡村(現在の福浦東部)・富野村・豊島村ほかが次々と開拓され、元禄年間(一六八八〜一七〇三)にはほぼ現在の武田地区が完成したと考えられる。

弘前市立図書館所蔵の「金木新田之図」は制作年代が不明であるが、正徳四年(一七一四)に開削されたとされる鳥谷川が描かれていることからそれ以降の作と考えられる。

村々の位置や、河川湖沼・道路等が記されており、初期の金木新田の様子がわかる貴重な古絵図である。

当時は十三潟が川内村近郊まで迫り、現在よりもはるかに大きかったことがうかがわれる。十三潟に注ぐ鳥谷川河口が「深江田」、西側の入江が「赤川」と記されているが、位置や形状からみて旧「内潟」はこれらの名残とも推定される。

また富野村と豊島村の間には「父ヶ沼」という大きな湖沼が存在する。あるいは豊島南方に近年まで存在した「母沼」と対になっていたと考えられる。

「金木新田之絵図(弘前市立図書館蔵)」模式図(部分)

村々の位置も、現在とは異なっている。例えば福浦村・宮川村が現在とは異なる位置に記されているほか、現存しない村名が認められる。宮川村については、元来西側の低地「宮川字霞」に存在したものが、度重なる水害のため元文年間(一七三六〜四〇)現地に移ったとする伝承が残されていることから(『中里町誌』)、同絵図は移転前の宮川村を示していると考えられる。

「船岡村」「大里村」は後の八幡村、芦野村に隣接する「久米田村」は後に大沢内村の一部となった。金木新田に属しながら、現在の大沢内・八幡・宮川各集落が中里地区に存在するのは、元々武田地区にあった村が移動してきた結果と理解される。また「福井村」は後に田茂木村の一部となったほか、さらに下流の「芦辺村」「桜井村」は後の藤枝村(現金木町)であり、やはり絵図が描かれた後に現在地に移動したと考えられる。

同絵図の記載を信じれば、金木新田の村々の半分近くは、後に移転したことがうかがわれる。近世の記録によれば、金木新田は度々洪水や冠水に苛まれたことが知られているが、集落移転の主たる原因はこれらの水害であろう。同新田の人々は堤防を築くとともに、最終的には集落の移転という手段によって水害から村を守ったのである。

ところで、長泥や若宮・竹田といった集落は描かれていない。周知のように長泥は、文化元年(一八〇四)に拓かれた「福泊村」が発祥であり、金木新田のなかではもっとも後発の村である。現在の長泥や若宮(下長泥)は、岩木川改修にともなう元長泥集落の移転によって昭和初めに新たに拓かれ、また竹田は戦後になって開拓された。