誰も知らない中里11 旅人がみた中里 〜天明飢饉後の農村〜
 

 

金木新田の成立によって、十八世紀にはほぼ現在の中里地域が完成したが、そのあゆみは必ずしも順調ではなかった。
水害・天候不順等の災害が跡を絶たず、集落の移転・廃村もまた珍しくなかったのである。とくに飢饉の凄惨さは筆舌に尽くしがたく、多くの哀話が残されているが、今回は天明飢饉の悪夢も醒めやらぬ寛政年間、当地方を訪れた旅人の目を借りて、当時の村の様子を紹介する。

飢饉からほぼ十年、寛政五年(一七九三)小泊方面から相内入りした水戸藩士木村謙次は次のように記している。
「【意訳】相内村の三輪善四郎の家に泊まる。(中略)この町は昔、百軒余りであったが、飢饉のため三百人、六十軒ほどに減ってしまった。この日の夜、湯を張った盥で足を洗ってもらった。翌朝見ていると、その盥を流しの上に置いて、家のものがみんな顔を洗っていた。
樵をやっている主人の息子が、夜帰ってきて言うには、今日も天明の飢饉の餓死者の首を野原で見つけ、土中に埋め直してきたと。これらのことは度々あるという。(『北行日録』)」

飢饉の影響がなお癒えていないことや、庄屋クラスにおいても質素倹約を余儀なくされている様子がうかがわれる。一方翌日に訪れた中里の様子については、続けて次のように記す。

「【意訳】翌日今泉村に至るまで二里(約八キロ)ばかり潟の際を通った。臼市村は水田が広がっている。高根村・新田子村・上高根・尾別村を経て中里村である。富農が多く、屋敷も新しくきれいである。左の山手に宮野沢村がある。この村も豊かな里である。八幡村には弘前藩の穀倉がある。三棟あり、一棟あたり一万五千表ほど入るという。水田の右手に彦田村があり、八幡宮がある。この辺りは、一役(〇.六七反)で二俵半穫れる上田であり、弘前藩領の中で地味が肥え、農作物が豊かに実る土地である。(『北行日録』)」

天明飢饉碑(五所川原市金木町)

ちなみにその百年ほど前のデータであるが、貞享四年(一六八七)ならびに元文元〜二年(一七三六〜三七)の検地帳では、水田に限ってみれば、金木組(中里・内潟)が平均反収二.一俵、金木新田(武田)同一.四俵である。いずれにしても反収一〇俵余りの現在とは比べものにならないが、謙次の眼には、飢饉直後にしては豊かな土地と映ったのであろう。

その数年後の寛政八・十年(一七九六・八)には、三河国(愛知県)出身の紀行家菅江真澄が訪れ、詳細な記録を残している。寛政八年初夏、真澄は水海のような大池(大沢内溜池)の堤を通り、波知満武邑(八幡村)・深江田村・やはたのおほん神(八幡宮)を過ぎて羽立に着いた。折しも水田では、油を使った害虫駆除が行われていた。

「【意訳】左手の五倫には寺跡や五倫塔があり、昔は栄えていたと伝えられている。さらに小池(わんぱく広場)の堤を過ぎて中里村に入った。いささか賑やかなところである。その日と翌日は、加藤なにがし(加藤家五代八右衛門ヵ)の紹介で、米家荘太郎宅(井沼家・尾別宮越の分家)に宿泊した。

翌々日岩井川(不明)という小さな川を越えて、尾別村観世音を過ぎ、上・中・下の高根村を進んで大日如来を祀った堂に着いた。堂の下には、四尺ばかりの木のひろほこ(両刃の大剣)のようなものがたくさんあった。聞くところによると、毎年田植えの終わる頃、村の若者たちが集まって、これで戦いのまねをして法楽し奉ったのを、ここに納めておくのだという。

やはたのかんみやしろ(八幡宮)を過ぎ、臼井地(薄市)村の田の沢川の橋を渡ると、高い山の頂上に観世音を祀っている。そこからは刀舎(十三)の水海が木の間から見えた。中里にあった薄市山弘法寺は、于須以知(薄市)から移ったものと思われ、その寺跡があった。
続く林を昆布懸の林という。昔はこの辺りまで海が入り込んで、昆布が穫れたという伝承がある。今泉という村にくると、山路あるいは潟辺へゆく道があった。(『外浜奇勝』)」

当時の中里村が賑わっていたこと、下高根の現稲荷神社には大日如来が祀られており、太刀振りが行われていたことなどがわかる。加藤が米家を斡旋した経緯については不明であるが、あるいはこの年米家宅が新築されているので、そのことと関係があるのかもしれない。なお、真澄は翌々寛政十年にも訪れ、再び米家宅に滞在している。

さらに数年後の享和二年(一八〇二)には、弘前藩家老喜多村監物一行の巡検があり、中里加藤八九郎宅に宿泊した後、金木新田に向かった。
「中里村を出て昨日罷通候深郷田八幡村を過て福浦村に至る。豪家塚本長兵衛という者有、橋を隔て豊岡村といふ川を中して両岸家有、富野村田中惣七、豪家也、古い八幡之御蔵、惣七屋敷有之由(『中里町誌』)」
福浦村塚本長兵衛、富野村田中惣七何れも豪農であり、とくに田中の屋敷には八幡へ移る前の御蔵があったことなどがわかる。

また弘前藩主も度々中里を訪れ加藤家に宿泊したりしているが、目立った記録は残されていない。幕末になると吉田松陰や平尾魯仙・岡本青鵞などが相次いで訪れているが、こうした旅人の目に映った中里地域は、案外と豊かでにぎやかな村に見えたようである。