誰も知らない中里12 近代の諸改革〜新たな始まり〜
 

 

明治維新後は、強力な中央集権の下、矢継ぎ早に諸改革が断行された。明治5年(1872)には学制が頌布され、国家をあげて教育制度の確立に力が注がれた。国民すべてが初等教育を受けることが定められ、まもなく深郷田小学・中里小学などが開設されている。これらは明治19年(1886)小学校令が施行されると尋常小学校並びに高等小学校へと改組された。

明治6年(1873)には地租改正法が公布され、従来の石高制による米の現物貢納から、地価に基づく金納制へと転換した。土地制度改革は、山林原野にも及んでいる。山林は官有地と民有地に区分され、青森県においては七割以上が官有地(後の国有林)に編入された。明治19年(1886)大小林区署制度が公布されると、青森に大林区署、中里地域には薄市小林区署が置かれた。同小林区署は、明治37(1904)年には中里に移転して、中里小林区署と改称されている。

なお大正13年(1924)には青森大林区署が青森営林局に、中里小林区署は中里営林署と改められた。 官有林の伐採は増加の一途をたどり、その輸送のために津軽森林鉄道敷設が計画された。同鉄道は、明治42年(1910)全国に先駆けてに完成し、翌43年より運行が開始された。森林鉄道の開通によって、木材の運送は飛躍的に拡大したが、反面十三湊や十三小廻しといった岩木川水運を衰退させる一因ともなった。

第十八組戸長役場役場から発送された議員当選通知(中泊町博物館蔵)


一方この間行政区の整理も再々にわたって行われた。明治4年(1871)廃藩置県によって青森県が誕生するとともに、同6年には大区小区制が実施された。中里地域は、第五大区第八小区(武田地区)並びに第九小区(中里・内潟)に属した。

明治11年(1878)には同制度に代わって郡区町村制が施行され、旧五大区は北津軽郡となった。また各村の整理が行われ、久米田村(大沢内村に吸収)・船岡村(八幡村に吸収)・今岡村(福浦村に吸収)・川内村(豊岡村に吸収)・福井村(田茂木村に吸収)等の村が姿を消した。明治16年(1873)には数ヶ村を連合した組合(連合)町村制が導入され、第十七組(武田地区)・第十八組(中里地区)・第十九組(内潟地区)が組織され、それぞれ戸長役場が置かれた。

更に明治22年(1889)には市制・町村制が施行され、組合制を基にした三ヶ村が誕生した。金木新田の立役者武田源左衛門に因んだ武田村、内潟沼に因んだ内潟村、そして中里村の三村である。近世以来の村々の大半は統合され、現在に続く行政組織が誕生した。

昭和5年(1930)には、五所川原と中里を結ぶ津軽鉄道が開通し、地域に様々な影響を及ぼした。徒歩や馬車・馬橇に頼っていた沿線地域は、全天候型の安定した交通手段を確保したのみならず、通勤・通学・商圏等の拡大による移動人口、ならびに大量輸送による物資流通の活性化等による近代化が促進された。 人・物資の結節点となった中里村は繁栄を一手に享受し、昭和16年(1941)には町制に移行するに至った。

太平洋戦争後は、明治維新時に匹敵する諸改革が相次いで実施された。学制は六・三・三・四制となり、民主主義や新憲法についての教育が重視されるとともに、農地改革が実施され、自作農の創設が図られた。行政区についても大きな改革が行われた。町村合併促進法の公布により、昭和30年(1955)新中里町が誕生する一方、明治22年以来の歴史を有する武田村、内潟村が姿を消したのである。

以来丁度五十年という節目にあたって、中里地域は再び合併を迎えようとしている。「中泊町」の誕生をもって、本連載もひとまずその責を終え、新たな歴史を見守ることにしたい。(*本稿は2005.3月号に掲載されたものです)