江戸時代の農民たち[年表]


   

新田開発・藩政・治水

 

災害・飢饉・疫病

天文24年

1555

能代方面より工藤伊左衛門等車力村柾子館に移住、開拓をはじめる(伝承)

   

永禄 2年

1559

   

大洪水。津軽天候不順で、飢饉になるという。

永禄 8年

1565

   

冷害により津軽大凶作。翌年にかけ餓死者続出すると伝えられる。

永禄10年

1567

   

6月洪水

元亀 2年

1571

嘉瀬八幡宮再建(伝承)

   

元亀 3年

1572

   

5月大洪水

天正 5年

1577

為信、広須八幡宮に新田開発祈願

   

天正16年

1588

対馬右衛門太郎、金木村開拓

   

天正18年

1590

工藤先左衛門、広須村を開く

   

文禄元年

1592

前田利家一行巡検使として津軽に来る(文禄検地)

   

文禄 2年

1593

板屋野木村を河湊とする

 

洪水

文禄 3年

1594

浪岡北畠氏遺臣白川・和泉・中谷氏ら川倉村開拓(伝承)

   

慶長 2年

1597

   

堀越川(平川)洪水

慶長 3年

1598

   

6月洪水

慶長 6年

1601

   

9月大雨洪水、諸橋流失。疫病流行

慶長 7年

1602

   

大風雨で死傷者

慶長 9年

1604

工藤定四郎、赤石村より牛潟に引越し開拓を始める

   

慶長11年

1606

石舘与助、工藤伊左衛門の婿養子となり牛潟に移住、開拓を始める

 

降雨続き、堀越川洪水。材木類多数流出。

慶長16年

1611

十三水戸口改修。大川掘替駒越川一筋に直す

 

2月平川出水

元和元年

1615

   

ヤマセ・大霜により皆無作。未聞の大飢饉、餓死者多く藩主死人を飛び越え帰国

元和 2年

1616

幕府からの拝領米一万石到着

 

寒冷な天候続く。前年の大凶作により餓死者多く農民の逃散続出

元和 3年

1617

荒田の開発を奨励し、開発者に救米を与う

   

元和 4年

1618

下ノ切(飯詰村より下)の荒田開発者に対し士分取立を令す

   

元和 6年

1620

牛潟の鳴海小四郎、開発免許状をうける

   

元和 8年

1622

田光沼添いに大堤築く

   

寛永元年

1624

   

2月大雨下通り大水

寛永 3年

1626

元和元年大凶作以来の荒地開発ほぼ成る

   

寛永 5年

1628

高根村に大溜池作る

   

寛永11年

1634

   

11月洪水

寛永16年

1639

岩木川築堤の記事初めて文献に表わる

 

7月大洪水、原子より下通り金木村迄破損用地残らず泥に埋まる、前代未聞の洪水

寛永17年

1640

   

津軽大凶作死亡者多数

寛永18年

1641

   

冷雨続きで津軽大凶作、死者多数(2年飢饉と唱う)

寛永19年

1642

   

津軽大飢饉、餓死者多く「3年飢饉」と呼ぶ。5月下旬越後米(幕府からの拝領米)弘前に届き、1人につき4升5合づつ給与

寛永20年

1643

荒木関彦兵衛中里新田創設

   

正保 2年

1645

津軽信義大川(岩木川)・十川を改修す。十三水戸口工事に着手したが失敗。

 

正月岩木川大洪水、三世寺より下は水深7〜8尺

慶安元年

1648

   

正月洪水。下通り被害甚大

慶安 2年

1649

十三湖水戸口切替普請9月中止

 

8月大雨洪水、大川筋流家多く死者も多し

承応 2年

1653

   

洪水。津軽地方大旱魃、凶作

明暦元年

1655

川内・豊岡の開拓始む

   

明暦 2年

1656

   

津軽領内大風、田畑損耗多し

明暦 3年

1657

   

夏津軽領大旱魃。大風、田畑被害大

万治元年

1658

大川作右衛門富野村を開き、加賀谷弥八郎開拓に従事す

 

当夏大旱魃。凶作

万治 2年

1659

泉山村(富萢村)・権現部落開村される

   

万治 3年

1660

   

7月より津軽連雨、8〜9月洪水

寛文 2年

1662

   

8月洪水あり

寛文 3年

1663

佐藤太兵衛、佐渡より来りて芦野村を開拓。太田村三上彦九郎も同村開拓に従事    

寛文 4年

1664

   

7月大風雨で岩木川洪水。12月疫流行死亡多し。

寛文 6年

1666

10万の郷人夫にて田光沼落し口切替。岩木川に流す。

 

大洪水、田畑多く荒廃。凶作

寛文 7年

1667

古川角左衛門、小田川村を開拓。喜良市・金木・川倉山図を作る    

寛文 8年

1668

成田長左衛門、賽ノ神村より薄市に移り開拓

 

6月大洪水。田畑多く荒廃また疱瘡流行し、小児多く死亡。

寛文10年

1670

   

5、6月再度岩木川大洪水

寛文11年

1671

   

津軽凶作。また10月大水台風により岩木川洪水所々橋流出

寛文12年

1672

新田開発成り、新村137誕生。他国人移住奨励

 

腹疫流行死亡多数

寛文13年

1673

板屋野木村に藩庫設置

 

8月大風雨

延宝 2年

1674

岩木川穿替これより遂年武田源左衛門岩木川両岸数十里の大堤を築造。中通新田成就

 

8月大風雨

延宝 3年

1675

鳥谷川開通

 

疱瘡流行、餓死者多数

延宝 4年

1676

   

4月疱瘡流行

延宝 6年

1678

   

8月大川洪水

延宝 7年

1679

下ノ切遣検地実施

 

日照り飢饉、不作。8、9月に3度洪水、橋落ち田畑流さる

延宝 8年

1680

   

1月・8月岩木川洪水。下町残らず床へ上り他35村水浸し水死35人牛馬89疋流家75軒。「白髭水」。疱瘡流行こども死亡

天和元年

1681

津軽領内の総検地終了、五所川原遣を設置。

 

1月岩木川大水。

天和 2年

1682

木造に御蔵建設。藩営治水工事始まる。また岩木川掘替え、駒越川一筋に普請

 

6月岩木川洪水

貞享元年

1684

五所川原堤両2974間修理

   

貞享 2年

1685

五所川原に藩の米蔵を設ける。五所川原堤普請

 

3月洪水。

貞享 3年

1686

尾別村浅井溜池を築く。三新田の貢米収納の蔵を木造に建立

 

2月末大地震。山津波によりソデ柳村・居升村流出。ソデ柳村民は金木村へ、居升村民は不動の林に移り不動林村と改称

貞享 4年

1687

   

広田組姥萢年貢米十三潟にて難破

元禄元年

1688

   

8月所々洪水

元禄 2年

1689

   

9月岩木川洪水

元禄 3年

1690

金木新田堤防蒔田より下流福井村地内に至る3660間・藤枝溜池を築く

 

板屋野木御蔵米積船、十三潟で難破

元禄 4年

1691

十三湊に藩庫建てる。板屋野木村に御蔵3軒建つ

 

麻疹流行

元禄 5年

1692

   

大雨洪水。天候不順で時々霜ふり、五十年来の大雪。稲一切不熟作

元禄 6年

1693

   

2月下ノ切地方大雨洪水で溺死者多く、新田を捨て古村へ帰る。3〜9月にかけて洪水相次ぐ。

元禄 7年

1694

   

2月・4月・7月岩木川洪水

元禄 8年

1695

幕府から米3万俵分8千両借りうける

 

夏中、連日降雨で大洪水、5月田の冠水数千町歩。寒冷な天候続き7月9月大雪。凶作による餓死者3万人、6月〜12月の病死者2838人。悪疫流行

元禄 9年

1696

   

疫病流行、死者多し、渇者改役・盗賊改め奉行をおく。領内渇者66310人

元禄10年

1697

藤枝溜池築堤、蒔田より福井地内に至る提増築。開墾のため、他領民の移住を許可する    

元禄11年

1698

深郷田新田11ヶ村派立。金木新田大川添の高堤築く

 

岩木川出水、領内大被害5月〜7月しばしば出水

元禄12年

1699

木造新田派立

 

洪水

元禄13年

1700

十三村の訓を「とさ」から「じゅうさん」に改正

 

1月慶安元・延宝8年以来の大洪水。下の村では多くの家屋流失

元禄14年

1701

五所川原より高瀬村まで水除堤3ヶ所を人夫1万人動員して修築

 

7月〜8月大雨洪水所々の橋落ち、藻川、鶴ヶ岡損害多し。五所川原新田の土手崩る。凶作

元禄15年

1702

金木新田富野村に藩米収納庫設置

 

長雨洪水。天候不順による凶作。

元禄16年

1703

   

6月大雨続き、しばしば洪水。各地の流失家屋・牛馬の流死多数、鶴田より下通りは青田の上を舟で往来、下ノ切の田畑荒廃

元禄17年

1704

   

7月・8月大雨・各地の橋流失。岩木川寺沢川洪水。土砂木石流出

宝永 2年

1705

金木新田18ヶ村を開く

 

3月岩木川洪水。ヤマセにより凶作。

宝永 3年

1706

大沢内溜池完成。福井村より田茂木村家岸まで赤川端へ二千間築堤。早川・山田川・金木川を改修

 

十三水戸口閉塞。12月大雨洪水。金木・中里・相内材木流失。大水害を受けた神原村を金木川口より移転

宝永 4年

1707

   

7月・8月大風雨、岩木川出水、大風で潰家193軒・田畑大被害。大飢饉

宝永 5年

1708

   

大風、東通り外ヶ浜・飯詰より下、稲嶋立飛ばされる。麻疹流行

宝永 6年

1709

   

麻疹流行

宝永 7年

1710

   

3月・7月大雨大洪水。凶作

宝永 8年

1711

大沢内溜池を築く

 

4月・5月大風雨にて被害甚大

正徳 2年

1712

新田開発功労者武田源左衛門父子に切腹を命ずる

 

大雨洪水

正徳 3年

1713

前年不作の為、津軽に上方より米買船多く来る

 

12月大雨大水

正徳 4年

1714

鳥谷川を堀開く

 

1月風雨。6月・7月大水家流人流死

正徳 5年

1715

蔵米不足のため在々から借り上げる

 

5月大雨で岩木川洪水

享保元年

1716

福井村築堤補強延長1600間

 

不作

享保 2年

1717

   

夏疫病流行死亡者多し

享保 3年

1718

   

疫病流行

享保 4年

1719

   

7月、20年来の洪水、鶴ヶ岡・藻川・芦野・川口村被害

享保 5年

1720

   

凶作。大雪のため秋仕舞出来ず、百姓難儀する。疫病流行

享保 6年

1721

   

時疫流行

享保 7年

1722

   

7月大東風。時疫流行。白道院にて疫病除の百万遍念仏施餓鬼。

享保 8年

1723

   

3月岩木川洪水。天候不順にて不作、農民困窮。

享保 9年

1724

   

7月岩木川たびたび洪水。新田地方床上浸水

享保10年

1725

   

前代未聞の大日照り、各地で水争い。疫病流行、死者多数

享保11年

1726

富萢村を開く

   

享保12年

1727

   

3月岩木川洪水

享保13年

1728

神原村より芦野村向迄八百間堀開く

 

この年洪水相次ぐ。7月の大洪水は、延宝8年以来の長雨で岩木川全流域で大被害

享保14年

1729

4月よりの大川改修、8月に終わる。抑堀損という

 

3月洪水、金木・広須新田被害大、豊島村9人流死・流家7軒・損壊10軒、蒲原村13軒流失・石渡川橋40間流失・十三町人馬多く死ぬ

享保15年

1730

   

咳気・麻疹・疫病流行、病死者多数

享保16年

1731

   

麻疹流行

享保18年

1733

十三町役所創立

 

悪風吹続き疫病流行、死者多数

享保19年

1734

藩財政窮迫につき従来の用金の十ヶ一のほかに借米のこと下命    

元文 2年

1737

   

7月岩木川・平川洪水、金木・中柏木新田で冠水田多し、福井村破損堤防の修築

元文 3年

1738

   

5月〜6月大雨・洪水

元文 4年

1739

   

8月大風雨、被害甚大

元文 5年

1740

   

大凶作。乞食多く餓死者430人余

元文 6年

1741

   

春時疫流行。7月大川洪水、木造・五所川原新田水湛、福井村地内破損。田畑損耗多し

寛保 2年

1742

   

7月領内大洪水、中通り下在村々の損耗甚大、流失家屋・死者多数。307ヶ村冠水・78軒流失・48人流死・橋307ヶ所流失。12月岩木川出水

寛保 3年

1743

   

3月〜6月にかけてたびたび大雨洪水

寛保 4年

1744

   

5月大水害。死亡10人。住家流失倒壊とも41、浸水家屋・冠水田畑多く減収2万一千余石、橋大小264、用水樋190などの被害、そのほとんどは岩木川水系。疱瘡流行

延享 2年

1745

   

8月・12月大雨・洪水・諸橋破損

延享 3年

1746

   

岩木川洪水

延享 4年

1747

   

6月〜8月岩木川洪水、田地水損多し。時疫流行

延享 5年

1748

   

8月領内大風雨、田畑損耗多し。夏より秋まで疱瘡流行

寛延 2年

1749

   

6月岩木川洪水。天候不順、大凶作。乞食非人多く所々へ小屋掛救米のことあり、田地方餓死者山のごとし

寛延 3年

1750

   

3月岩木川洪水。乞食多く、餓死者多数

宝暦元年

1751

   

6月〜7月大洪水

宝暦 2年

1752

田茂木村領福井村領堀割改修

 

6月大川大水

宝暦 3年

1753

   

疫病流行

宝暦 4年

1754

湊村大川普請。板屋野木並に所々水除堤普請

   

宝暦 5年

1755

不作につき上納免除

 

寒冷な気候続き、天候不順。凶作。

宝暦 6年

1756

領内の米蔵を大庄屋預りとする。春より7月中、月に3度宛救米を出し窮民を救う    

宝暦 8年

1758

   

7月大洪水、西浜で御廻米5000俵沈む。疱瘡

宝暦 9年

1759

岩木川大普請

 

閏7月、延宝8年8月以来の大水

宝暦10年

1760

   

日照り。7月岩木川洪水

宝暦12年

1762

   

夏、稲虫につき損耗。脚気流行死者多し。

宝暦13年

1763

   

6月下旬以降降雨続き洪水

宝暦14年

1764

   

疱瘡流行

明和 2年

1765

五所川原堰大口水門を取建つ

 

7月洪水。風病流行

明和 3年

1766

   

未曾有の大地震。被害甚大。8月大風。凶作

明和 4年

1767

凶作で米価高く1俵24匁

 

9月大風、新田通り損耗多し。不作

明和 5年

1768

   

地震・日照りのため不作、虫つき。

明和 6年

1769

   

4月大風降雹。6月岩木川6分余の出水

明和 7年

1770

春より7月まで大坂廻船13艘破損。米数万俵損失につき、10ヶ年経費節を厳命

 

「蜜柑風」流行、死者多数

明和 9年

1772

   

正月中旬より疱瘡流行。夏寒くヤマセのため半作

安永 2年

1773

   

時疫流行死亡者多く6月猖獗。旱魃にて損害多し

安永 3年

1774

鳥谷川改修

 

時疫やまず、往来途絶える

安永 4年

1775

   

春より時疫流行、数万人死亡

安永 5年

1776

   

時疫・麻疹流行。領内不作、損耗12万8358石余

安永 6年

1777

川倉川流砂掘上

 

5月岩木川7分の出水

安永 7年

1778

   

1月・6月岩木川洪水、所々被害。時疫流行

安永 8年

1779

   

5月下旬より長雨。領内大洪水、岩木川・平川その他の河川洪水、流死14人・流失破損家屋229軒、流失橋120ヵ所、田畑冠水多し。

安永 9年

1780

   

疱瘡流行。7月「白髭以来の洪水」平川・岩木川洪水・城下の諸橋流失・死者4人・流失家屋31軒・潰家38軒・橋流失268・田畑損耗大

安永10年

1781

   

正月岩木川大洪水。下通りの土手決潰、流死21人。疱瘡流行、子ども多く死ぬ

天明 2年

1782

   

3月・6月・7月岩木川洪水。天候不順・霰・虫害等により凶作、損耗12万1780石余

天明 3年

1783

   

3月岩木川洪水。春より天候不順。穀物実らず神武以来の大飢饉、盗賊横行、食に困り人馬の肉を食べる。時疫流行。

天明 4年

1784

去年大凶作により幕府より金1万両を借用。領内百姓へ夫食米を支給。廃田回復のため藩士の土着を許可

 

3年続きの凶作。悪疫流行。去今年餓死者8万1700人余・斃馬1万7210頭・荒廃田2万町歩余

天明 5年

1785

   

寒冷のため7分作

天明 6年

1786

   

凶作、損耗4分9厘、餓死者4万5千人余。秋田領への流民1万人という

天明 7年

1787

7分作、廃田開発2千町歩、残り8千町歩

 

6月岩木川7歩の出水

天明 8年

1788

   

9月岩木川出水。瘧疾流行

天明 9年

1789

   

時疫・瘧疾・咳気流行。6月暴風、岩木川7歩の出水。夏中ひでり、続いて寒冷7分作

寛政 2年

1790

豊作、ただし米価下直のため百姓難儀

 

内潟より小股川まで新川堀開く

寛政 3年

1791

   

8月大風雨、洪水。去年より疱瘡流行止まず

寛政 4年

1792

廃田開発のため、藩士の土着を下命

 

大地震。大風、南部御用銅船十三沖沈。高根溜池破れる

寛政 6年

1794

   

疫病流行

寛政 7年

1795

   

6月・8月大水、田舎館・金木・広田・藤代組川添いの村々刈り取った稲流失

寛政 8年

1796

   

岩木川9歩出水、流域の村々浸水、藻川の堤4ヵ所破れる

寛政 9年

1797

   

3月・6月洪水、金木新田18ヶ村浸水、船で往来

寛政10年

1798

藩士土着令を廃す。洪水の被害復旧に人足4万5千人を動員

 

3月新田地方洪水。6月岩木川60年来の大水、水高さ1丈3尺被害甚大。疱瘡流行

寛政11年

1799

岩木川所々屈曲、堀替、中里川提築立、川縁切上普請    

寛政13年

1801

土着藩士の城下への引揚げ完了

   

文化元年

1804

   

3月・6月・8月岩木川洪水、所々破損

文化 2年

1805

   

大風・大風雨・6月岩木川出水所々破損

文化 4年

1807

   

春時疫流行

文化 6年

1809

   

薄市川大出水

文化 7年

1810

   

3月岩木川6歩出水

文化 8年

1811

   

閏2月大雨で雪4尺消え洪水。5月・7月大雨洪水。新田地方52ヶ村皆無作。

文化 9年

1812

   

7月岩木川5歩ほど出水

文化10年

1813

長泥土居普請、小田川千貫崎向ひ川狭き個所掘替

 

7月岩木川洪水、流木。天候不順6分作

文化11年

1814

   

7月大風。福井提切、出穂中損耗大。時疫流行

文化12年

1815

金木新田長泥大川堤築立人夫3万人

 

時疫流行。7月・8月大雨、岩木川8〜9歩出水

文化13年

1816

車力街道土居築造・長泥堤出来・新山田川成る

 

春疱瘡流行。貧困の者に死亡多し

文化14年

1817

   

春時疫流行、死亡多数。6月岩木川8歩出水、田畑作物被害、長泥・福井堰破れる

文政元年

1818

神原村より福泊まで堤防強化、築堤人夫6千人

 

6月大雨、岩木川6歩出水

文政 3年

1820

金木新田大川水除堤を作る。人夫6500人

   

文政 4年

1821

   

痢病猖獗を極む

文政 6年

1823

   

疱瘡流行

文政 7年

1824

藻川村堤防500間築立。其田弥太郎長富溜池を築く

 

麻疹流行

文政 8年

1825

福井村中島萢初めて畑の開墾

 

岩木川洪水9歩出水

文政10年

1827

   

7月大雨、岩木川10歩出水。洪水で域内破損の家屋流失・水死多数

文政11年

1828

米出沢・弁天沢・苗代沢・弥蔵沢・松の沢溜池を新築

 

疱瘡。大雨大水

文政12年

1829

   

疱瘡流行し死者多し

文政13年

1830

其田弥太郎、長富二の沢溜池を築く

 

8月大雨、岩木川洪水。岩木川流末の村々流出

天保 2年

1831

   

8月岩木川大洪水

天保 3年

1832

   

岩木川洪水。凶作。津軽領損耗5分6厘70。時疫猖獗、閏11月より12月中、風邪大流行

天保 4年

1833

   

春秋天候不順、古新田とも収納皆無、米価騰貴し天明大凶作と等しい凶作

天保 5年

1834

   

疱瘡流行。珍しく豊作、但し前年の不作のため食料不足

天保 6年

1835

   

大霰のため苗代損害甚大。6月中旬より気候不順、凶作となる

天保 7年

1836

   

夏中不順にて損耗平均9歩1厘。飢饉による他散の者2000人に上る、重臣ら江戸詰にて無策

天保 8年

1837

   

凶作、損耗4分9厘、餓死者4万5千人余。秋田領への流民1万人という

天保 9年

1838

   

天候不順凶作。疫病流行。領内の減収7割4分と幕府に届出

天保10年

1839

   

金木組疫病・腹病流行。7月大風雨、岩木川9歩余出水。去る4年より7年間の凶作の被害死亡3万5616人・他散4万7043人・空家1万3076軒・斃馬1万9089頭・廃田9484町

天保11年

1840

   

5月岩木川など洪水、7月岩木川土手破れ家3軒流失破損

天保12年

1841

   

正月岩木川洪水。流行の瘧患猖獗。夏中洪水のため損耗3歩3厘

天保13年

1842

廃田地の自由耕作を許可

 

春より瘧病流行

天保14年

1843

中里村加藤八右衛門200町歩余の廃田開発成就

   

天保15年

1844

   

時疫猖獗。夏中霜雨薄暑にて損耗4分2厘9毛。7月岩木川出水、薄市川・今泉川など流域全体に被害

弘化 4年

1847

   

去年冬より疱瘡流行。子供死亡多し

弘化 5年

1848

   

寒中洪水

嘉永 2年

1849

久兵衛川の西側に新川を通し悪水排除をなす

   

嘉永 3年

1850

   

4月・6月岩木川出水

嘉永 4年

1851

   

時疫流行

嘉永 5年

1852

十三湖千貫崎開発に着手、工藤伝兵衛御用掛となる

 

3月岩木川8歩・翌17日9歩5厘出水

安政元年

1854

   

十三湊暴風で乗合13人中7人溺死

安政 3年

1856

新堰成り、豊富村新開

 

時疫流行

安政 4年

1857

   

6月大雨、平常より尺余の出水、田畑冠水33ヵ所橋流失。時疫猖獗「隣松寺風」流行。麻疹患者多数。

安政 5年

1858

大川早口堀替

 

疱瘡

文久元年

1861

翌2年に亘り十三村の南端を開鑿せるも失敗

   

文久 2年

1862

   

6月洪水。麻疹流行、7月猖獗死亡多し

文久 4年

1864

十三水戸口改修(本多水戸)

   

元治 2年

1865

   

7月・10月大風、岩木川大洪水田畑冠水、949町9反歩被害。疱瘡流行、牛種痘を実施

慶応 2年

1866

藻川村成戸開発のため大川堤防増築

 

8月大風で皆無作。大凶作、減収24万石、倹約令出る。新田地方疱瘡流行。

慶応 3年

1867

綱下100間水戸口改修

 

疱瘡流行

[参考文献]

成田末五郎 1965 中里町誌 中里町

長尾角左衛門 1986 岩木川物語[復刻版]

建設省東北地方建設局青森工事事務所 1995 岩木川治水史年表

建設省東北地方建設局青森工事事務所 1999 津軽平野と岩木川のあゆみ−岩木川治水史−