青森県の擦文土器解説X

擦文土器の出土が意味するもの


津軽海峡をはさんで東北北部から北海道南西部にかけてひろがる地域は、歴史上たびたび共通の文化をもっていたことが知られています。その伝統は縄文時代前期(約5,500年前)円筒土器文化圏の成立にさかのぼり、以降各時代を通じて継承されていきます(注22)。

このころからすでに、石器の原材料となる黒曜石など原産地が限定される資材を中心に、日本海太平洋沿岸を往来する交易ルートが確立しており、同地域は中継地として重要な役割を果たしました。交易は当然物資を運ぶ人の移動を前提としたものですが、ともなって技術や文化が同ルート上を伝播し、ときには集団移住というような大規模な人の流れに至ることもあったと想定されます。

の制度を模した律令国家が誕生したころ、海峡をめぐる文化圏域の人びとは「蝦夷」と称され、狩猟採集生活を基盤にした社会をつくっていましたが、律令国家との接触により、経済的変化を余儀なくされました。律令的な生活様式の受け入れは、稲作を主体とする農耕社会への転換をうながすとともに、その受容の時期や程度によって、文化圏内での差異を生じさせるようになります(注23)。

海峡の南側では、7世紀以降いち早く竪穴建物を中心とした農耕集落が形成された馬淵川流域と、漁撈活動の比重が高い下北地方9世紀以降本格的に農耕社会が到来する津軽地方(岩木川・米代川流域)に大きくわかれ、その差は9世紀後半以降ますます拡大化していきます。

この間、北海道においても律令文化の影響は確実に見受けられ、北東北に類似する土師器を主体とした土器様式をはじめ、カマドを持つ竪穴建物など、一見海峡の南側とかわりのない生活様式が定着します。ただし、もともと農耕よりも狩猟・漁撈活動に比重が置かれた獲得経済の社会であるとともに、9世紀以降刻線文に特徴づけられる新たな擦文土器が食器組成の中心を占めるようになると、海峡以南の地域とは異質のあゆみを開始するようになります。

律令制の衰退期に相当する9世紀後半以降は、本州でも擦文土器の出土が見られるようになります。とくに津軽地方では集落の急増が認められ、米を中心とする農業生産五所川原須恵器窯の操業、岩木山麓を中心とする製鉄の開始、陸奥湾岸を中心とする製塩など、各種生産の増大が推定されます(注24)。これらの生産物は津軽海峡を越え、北海道南西部を中継して(注25)、さらに道央や道東へ流通しました。また北海道からは、擦文土器あるいは鮭や海産物などがもたらされ、海峡をめぐる人・モノの交流は拡大の一途をたどったと考えられます。

生産活動と流通が活発化した同地域内では、しだいに河川などを単位とした村落共同体としてのまとまりが強化されていきます(注26)。各共同体の相対的自立は、土地・水・交易などの利権を巡る対立関係を生じさせたと考えられ、10世紀後半ころから空壕・柵列など防御施設を巡らす集落を出現させます。防御性集落とも称されるこれらの集落形態は、早くから律令体制下に組み込まれていた奥六郡をのぞいた北東北地方、米代川―北上川流域から津軽・下北半島、さらに海峡を越えて北海道南西部にかけて認められます(注27)。

このように海峡を挟んだ津軽地方ならびに北海道南西部の様相は連動しており(注28)、出土する擦文土器の器形・文様なども非常によく似た展開を示しますが、異なった部分が多いのもまた事実です。津軽地方の食器様式は、土師器甕・坏、須恵器長頸壺・大甕といった器種によって構成されますが、北海道では擦文土器を中心に、先の器種は客体的に加わる程度です。基本的には各の食器様式だけで完結できる構成となっています。さらに、10世紀後半以降津軽地方において顕著になる把手付土器内黒壺・蒸籠型甑などの特定器種も北海道においては認められない様子です。

また擦文土器の高坏といった器種の存在、刻文のある紡錘車羽口骨角器などは、津軽地方においてはほぼ認められません。あらゆる生活用具に一定のルールに従って文様が施されるのは、雑穀栽培などある程度の農耕を受け入れつつも、基本を狩猟・漁撈におく獲得経済社会特有の現象と理解されるのではないでしょうか。

ところで、本州内における擦文土器の由来については、@北海道で製作された移入品、A渡来してきた人々(交易もしくは諸生産活動に従事する人々)が本州で製作したもの、もしくは本州の人々によって模倣されたものとの二説があります。前者と後者では、擦文土器の使用形態が異なる可能性もありますが、おそらくその両者が混在していると推測されます(注29)。いずれにしても、著しく高まった経済的交流に関わってもたらされものと考えて間違いないでしょう。

馬淵川流域においてはまったく擦文土器の出土が認められず、前代の北大式・北部東北型土師器などの分布とは異なった様相を示します。平安時代中期以降における北方からの人・モノの流入が、おもに日本海岩木川など河川を中心とした水上交通によって主導され、太平洋ルートや陸上交通による交流が不活発であったとともに、奈良時代以降拡大しつつある、集団差に基づく何らかの見えない障壁が存在したものと推測されます。なお、こうした津軽・下北地方と馬淵川流域における移入品の差異は、中世にも引き継がれ、珠洲・越前など日本海側の陶器がおもに流通した前者と、太平洋側の常滑製品が卓越する後者というふうな色分けがなされるようになります(注30)。

下北地方は、比較的早くから擦文土器を出土しますが、大規模な調査が進んでないこともあって詳細はわかっていません。断片的な資料からは、北海道南西部よりもむしろ、道央部の擦文土器との関係が深いようであり、あるいは直接石狩低地帯から流入している可能性も考えられます。また農耕よりも漁撈の比重が高いと推定される一方、防御性集落の存在も確実であることから、津軽地方とは異なった地域様相を示すのかもしれません。

擦文土器が本州において出土する時期というのは、律令国家から王朝国家への転換期であるとともに、円筒土器文化圏以来連綿と続いてきた海峡をめぐる交流が、同質の経済文化圏内の交流から、それぞれ相対的に自立した異なった経済圏間の交易へと転換する時期といえそうです。以上については、従来の中央集権的な在り方を脱して、北方世界が王朝国家と対等の独自の経済圏を構築するに至ったとする見解もあります(注31)。

北方世界と国家の境界域に位置した津軽地方は、中世以降も環日本海地域の交易拠点として重要な役割をはたしましたが、古代末の海峡をめぐる交易はその先駆けとでもいうべき活況を呈していたのでしょう。


注22 富樫泰時 1997「縄文土器にみる南と北―北の円筒土器様式と南の大木式土器様式」『北日本の考古学―南と北の考古学― 』

注23 たとえば、小野裕子氏は、7世紀後半から8世紀はじめにかけて盛行する横走沈線文や鋸歯状・格子状沈線文を有する土師器の在り方などから、北上川水系、馬淵川・安比川水系、秋田・津軽地方、北海道内それぞれの集団の違いを想定している。小野 1998 「北海道における続縄文文化から擦文文化へ」考古学ジャーナル436

注24 三浦圭介 1995「古代」『新編弘前市史 資料編1-1 考古編』ほか

注25 瀬川拓郎氏は、刻印のある土器底を有する「日本海沿岸集団」とでもよぶグループが、本州との交易に関与しているとみている。瀬川 1996 「内陸の擦文文化にみるアイヌ的社会の成立」『アイヌ文化の成立を考える』北海道立北方民族博物館

注26 たとえば、中里町における防御性集落の分布は、宮野沢川流域、尾別川流域、今泉川流域の河川毎にブロック的集中が認められる。

注27 工藤雅樹 1995「北日本の平安時代環壕集落・高地性集落」考古学ジャーナル387ほか

注28 擦文の高台坏や高坏の出現は、10世紀中葉以降に盛行する土師器の足高高台坏や柱状高台坏と関連があるかも知れない。

注29 松本 建速氏は、本州出土擦文土器の製作者を、北海道南部から婚姻によって移動してきた女性と仮定している。松本 1999 「津軽海峡と擦文土器・手づくね土師器・ロクロ土師器」海と考古学1

注30 宇野隆夫 1994 「日本海にみる中世の生産と流通」『中世都市十三湊と安藤氏』国立歴史民俗博物館編

注31 宇野隆夫 1997「蝦夷・律令国家・日本海―シンポジウムU基調報告」『蝦夷・律令国家・日本海―シンポジウムU・資料集―』日本考古学協会1997年度秋田大会実行委員会