伝説上の中世豪族
衣川で敗死した源義経が、実際は津軽地方まで逃げ延び、さらに北方へ落ち延びた とするいわゆる「義経伝説」は、青森県内各所に存在しますが、中里町にも残されています。中里町中里地区の通称「五林」には、源義経の従者大導寺力の妻「オリ」を祀る五林神社があります。由緒について、中里町誌(成田末五郎編 1965)は、
「奥州に逃れ来る源義経公の従者大導寺力は津軽三厩にて主人公と別れ、その地に止まりたるも、中里部落にさまよい来り、部落の娘「オリ」と同棲せしも、頼朝勢に発見され、大導寺沢に籠れども衆寡敵せず討死せりと、身持となれる「オリ」は妊らめる子と共に自害せり。その臨終の言葉に「妾は末永く此の地の産神とならん」と、即ち五輪塔を中心に左右に宝筐印塔を建立。現在は社殿を新築して石塔を安置している。」と伝えています。
御神体として祀られている五輪塔と、両側に並ぶ複数基の宝篋印塔は、郷土館等の調査によって、鎌倉時代から室町時代前期の造塔年代が推定されており(青森県立郷土館 1990 青森県中世金石造文化財 ほか)、大導寺の伝承とはやや時代が隔たっている印象を受けます。
一方、大導寺力の隠棲地とされる「大導寺屋敷」は、中里川の上流にある山深い台地で、周辺には「大導寺沢」や「寺屋敷」など、由緒のありそうな地名や遺跡が広がっています。かつて「大導寺屋敷」が開墾された際に、礎石らしいものが出土したとされますが詳細は不明です。
また「寺屋敷」からはかつて懸仏破片が、また周辺の「喜丈上げ」からは宝篋印塔塔身(所在不明)が、「ユズリ平」からは信楽壺が採集されおり、「大導寺屋敷」一帯に中世遺物が濃密に分布することは明らかですが、それぞれの所属年代が分からないため、大導寺伝説との関連については全く不明の状態です。
中里町の中心部に位置する中里城遺跡は、古くから「館っこ」「お城っこ」として伝えられてきました。「貞享の絵図」(1684年作製・中里町立博物館蔵)・「陸奥国津軽郡田舎庄中里村御検地水帳」(1687年作製・弘前市立図書館蔵)などの記録には、「古城」「古館」という記載が見られることから、少なくとも江戸時代前期には城跡として知られていたことがわかります。
昭和63〜平成9年(1988〜97)中里町教育委員会等によって、発掘調査がおこなわれ、平安時代の竪穴建物跡・空壕跡・柵列跡・井戸跡ほかの遺構、また土師器・須恵器・擦文土器・鉄製品・鉄滓・羽口・土錘などの遺物が発見され、平安時代の防御性集落であることが確認されています。
一方、中国製の青磁・白磁ほか日本各地でつくられた陶磁器などが発見されており、中世には、安藤・南部両氏の武力抗争を背景に、城(館)として利用されていたと考えられます。また当城の主については、新関又二郎、高坂修理、中里半四郎などの名が伝えられています。
元弘3年(1333)に勃発した鎌倉幕府方と朝廷方の争いは、翌建武元年後者の勝利のうちに終焉を迎えましたが、建武元年(1334)南部師行が北畠顕家に津軽の武家方降参人を報告した文書が「津軽降人交名注申状」です。上段に投降人、下段に投降人を預かった武将名が記されており、当時の津軽の支配勢力をうかがうことができる重要文書ですが、この中の降人の列中に新関又次郎と乙辺地小三郎光季という武将の名が並んでいます。
前者を中里城主、後者を尾別城主とする説があります。ただし、中里城遺跡から出土する中世陶磁器は室町時代中頃に相当する14世紀後半〜15世紀前半ころのものが中心で、新関又二郎が活躍したと考えられる14世紀前半ころのものは出土していません。
中里半四郎説については、「中里町誌」を編纂した成田末五郎や小友叔雄が紹介しており、津軽氏に攻められて南部八戸に亡命し、子孫はそこに住むが原典は不明であるとしています。また「中里町勢要覧」(昭和31年版)も中里半四郎の名をあげ360年前の領主としていますが、いずれにしても根拠が不明で、詳細については述べることができません。ちなみに、中里氏は中世末期に南部氏に属しており、閉伊郡中里村に所領を得ていました。八戸家中になったのは江戸時代八戸藩創設の時と考えられます。
高坂修理に関しては五林館城主とする見方が有力ですが、中里城主と考える説もあります。ただし、高坂修理が南朝の尊煕王を出迎えたのは、文明12年(1480)だと伝えられており、14世紀後半〜15世紀前半という出土陶磁器の年代とは隔たりがあります。
中里城主として、新関又二郎、高坂修理、中里半四郎などが伝えられていますが、いずれも発掘調査の結果と一致しない点が多々あり、城主の特定は困難であると考えられます。
中里城遺跡の項でも触れましたが、南北朝時代の文書「津軽降人交名注申状」には、新関又二郎と並んで、乙辺地小三郎光季という武将の名が降伏した人々の中に見えます。同人を尾別城主とする説があり、その場合の尾別城は、現在の弘誓寺ならびに津軽三十三観音十四番札所「尾別観音堂」が所在する台地、胡桃谷遺跡に比定されています。
空壕・帯郭などの遺構が認められ、「おっぺつだて(尾別館・尾(乙)辺地館)」とも通称される同遺跡周辺からは、縄文土器・土師器・須恵器・経石(時期不明)・鉄滓(時期不明)が出土しています。
また、弘誓寺には周辺から採集された室町時代の珠洲擂鉢破片が保存されているほか、 明治30年代には、弘誓寺のある台地西麓の苗代から、直径12pほどの懸仏が出土しています。現在弘誓寺懸仏(中里町指定文化財第6号)として知られる当該仏は、揚柳観音を御正体とする鋳銅製のもので、外縁部を一部欠損するものの、状態はおおむね良好です。揚柳観音は、三十三観音の筆頭におかれる観音で、通常は右手に揚柳枝を持ち、左手を乳の上に当てた二臂像で表現されますが、同懸仏では傍らに揚柳を挿した小瓶も見られます。
平安時代末頃に出現した懸仏は、南北朝から室町時代にかけて盛行し、青森県内では50面ほど確認されています(青森県立郷土館 1990 『青森県中世金石造文化財』)。津軽地方では、弘前市周辺、西海岸、十三湖周辺に多くみられ、板碑や五輪塔・宝篋印塔といった中世の石造文化財の分布に共通する点が多いようです。とくに西海岸・十三湖周辺は、中世安藤氏の支配拠点とされており、同氏が建立した板碑が集中的に残されています。先の青森県立郷土館の報告書においても、弘誓寺懸仏は室町時代のものと推定されており、あるいは、安藤氏と何らかの関連があるのかも知れません。
今のところ、尾別周辺で確認されている中世資料は、珠洲ならびに懸仏のみですが、尾別川上流にあったとされる解脱庵資料(如来座像・茶臼など)の存在も考え併せた場合、中世に遡る豪族あるいは宗教的な性格を有した施設が、尾別周辺にあった可能性は高いのではないでしょうか。
五林地区の中心部に、「五林館(亀山館)」があります。現在はほぼ宅地化され、一部畑地が残る程度ですが、同心円状に取り巻く数段の平場と空堀跡が認められます。この五林館の城主と伝えられているのが、高坂修理です。
伝承では、津軽に亡命した南朝の尊X王が、文明13年(1481)海路津軽に入り、菊川(森田村)を経て、吉野(森田村)に至ったところで、中里城主高坂修理亮に迎えられ、繁田村を経て中里城に入り、その後しばし宮野沢に逗留した後、北畠氏の浪岡城に入ったとされています。
五林館を含めた周辺一帯は「五林遺跡」として登録されており、館部分の一部が平成6年(1994)教育委員会によって試掘されています。柵列状遺構、空壕跡などが見つかるとともに、土師器・須恵器・擦文土器・土錘等平安時代の遺物が出土しており、平安地代の防御性集落であることが確認されています。
試掘時は中世遺物が全く出土しませんでしたが、平成4年(1992)詳細分布調査によって、五林館西側の低地から中国製青磁が表面採集されています。器形は皿もしくは小鉢で、器面に箆描蓮弁文が刻まれています。年代は高坂修理が活躍したとされる15世紀後半のものではなく、14〜15世紀(室町時代前期)が考えられています。