岩木川とともに生きる
承応2〜正徳2(1653〜1712)津軽藩士。南部櫛引から来て仕えた櫛引孫次郎建貞の子。明治22年誕生した武田村は、金木新田の開拓・治水などに功績のあった武田源左衛門に因んだもの。
最初櫛引孫次郎を名のりましたが、後に武田源左衛門と改めました。小禄ながら、才器人にすぐれ、経済の才能に長じていたので、四代藩主信政にしだいに取り立てられ、延宝年間より、岩木川改修事業や新田開墾の総奉行に任じられ、いずれも成功を収めました。
貞享元年(1684)には元締役を命ぜられ、総奉行大道寺隼人繁清、補佐間宮求馬等と一緒に、いわゆる「貞享の検地」を担当しました。同検地は極めて厳密に施行され、総石高は寛文4年(1664)のものと比較して、112,000石の増加となりました。、農民の側からは「百姓泣かせ」どころか「百姓殺し」とさえいわれ、係役人に対しては「新検地を打ち詰めたりや田口まで 隼人が求馬罪は源左衛門」、また特に源左衛門に対しては「櫛引を捨てたるゆえに百姓の頭に虱 武田源左衛門」という落首が投じられるほどでした。
元禄3年(1690)には元締役兼大目付に任じられるとともに、国元と江戸、上方の米金一切の総取締を命ぜられ、金70万両を貯蓄したと伝えられます。
翌元禄4年には、五所川原堰の工事担当を命ぜられ、藤崎村から五所川原村まで長さ1824間、幅平均2間半の堰を開通させたほか、金木新田の開拓や治水に大いに力を振るい、数々の功績を挙げました。
ところが元禄9年には、元締役・大目付等諸役を免ぜられ、手廻番頭となります。さらに信政が没し、信寿が五代藩主となって間もない正徳2年(1712)には、笹森勘解由左衛門へお預けとなり、その年の2月13日に、その子次部左衛門とともに、切腹を仰せつけられました。その理由については、己が功を樹てんがため上をないがしろにし、京及び大坂に於ける勤方不届の至りであるとされていますが、真相は不明です。菩提寺海蔵寺。没年60。
天保12〜明治37(1841〜1904)。政治家。東奥日報社社長。弘前鷹匠町生まれ。津軽藩の儒者櫛引錯斎の二男。幼名峰次郎。学藤の養嗣子となる。藩校稽古館に学び漢字に加えて数学、兵学をおさめた。明治10年(1877)から同18年(1885)まで北津軽郡長、同19年(1886)から21年(1888)まで西北両津軽郡長を兼任しました。その東奥日報社社長を経て、23年(1890)衆議院議員に立候補して当選、以後死去するまで選を重ねること8回に及びました。
常時、居間に岩木川地帯の大地図を懸けて、流域の治水解決を念願し尽力しました。明治37年4月21日、芝区桜川の自宅で急死。64歳。弘前公園二の丸下乗橋を渡った突き当りに、中里生まれの外崎覚撰文による記念碑が建立されています。
文久元〜昭和6(1861〜1931)。北津軽郡七和村羽野木沢(五所川原市)の人。岩木川改修の恩人。青森県師範学校卒業後間もなく政界に入り、明治45年(1912)郡会議員と県会議員を兼ねて当選、大正4年(1915)には県会議長となりました。ときの県政界の大御所といわれた立憲政友会青森県支部長の竹内清明とともに、県政界の実力者として活躍、大正6年(1917)には衆議院議員となり、2期在任しました。
とくに県会議員時代から津軽の生命線である岩木川の改修事業実施に奔走、明治33年(1900)津軽1市4郡の県会議員、市町村長、貴衆両院議負ほか有力者に呼びかけ岩木川改修期成同盟会を結成、自ら会長となって政府並びに両院に陳情し、ついに50有余年後の今日まで続けられている一大事業をもたらしました。
明治12〜昭和11(1879〜1936)。豊島出身の自治功労者。先祖は相内村(市浦村)の太田から江戸時代中期に豊嶋に移住して、代々庄屋を務めました。中学卒業後明治32年志願兵として弘前第8師団に入隊、日露戦争に出征して陸軍中尉となり勲六等単光旭日章、金250円を下賜されました。39年武田村長に就任以降、30年の長きにわたって開拓事業や治水事業に取り組むとともに、社会・教育事業にも深い関心を寄せ、産業組合を起して自ら組合長となり村民からは津軽の二宮尊徳とまで称えられました。
また明治44年都会議員から郡参事会員となって10数年在任、大正4年には県会議員に当選しました。その間あらゆる公共団体の役員となり村のために尽くし、武田村民並びに関係団体一同の発議で、生存中の昭和10年に彰徳の銅像が建立されましたが、戦時中に供出され、現在は銘板のみが残されています。
明治26 年〜昭和32(1893〜1957)。田茂木出身。五所川原農学校中退後、武田村役場を経て、警察官となりました。田名部署長・八戸署長などを歴任した後、戦時中は満洲国警察官僚として活躍。戦後は、青森市復興部次長兼水道課長として市の復興に努めました。
また、昭和26年以降相次いだ武田村と車力村間のアシガヤ採取を巡る紛争、いわゆる「昭和アシガヤ事件」の際には、武田村代表として事件の早期解決に奔走しました。
明治29〜昭和34(1896〜1959)。津軽藩士で西津軽郡車力村村医であった与惣平、母百代の長男。弘前中学から旧東京医専(日本医科大学)へ進学し、卒業後父の跡をつぎましたが、困窮した農村の実態にふれ義憤を感じ、実弟謙二郎とともに、社会運動に傾斜していきました。大正13年(1924)、弟謙二郎や大沢久明(喜代一)らとともに、県下初めての農民組合を車力村に、続いて北津軽郡武田村(中里町)長泥に組織し、小作料減免、土地取り上げなどに対する争議を指導しましたが、昭和2年(1927)村を追放されました。
移住先の八戸でも、警察の監視と弾圧をうけながら諸活動を続け、戦後は県地方労働委員会副委員長・社会党県本部執行委員長を歴任し、八戸市長選に出馬しましたが、善戦惜敗しました。昭和33年(1958)社会党を脱党し、以後松川事件対策八戸協議会長、平和と民主々義を守る八戸市民会議議長、八戸日朝親善協会長など、諸分野で活躍しつつ、63歳で死去しました。偉大な人道主義者として讃えられています。