実業界の雄
十三町名主の奈良屋は、元禄4年ころ初代奈良屋作次兵衛が大和国より十三に移住したもので、長男作次兵衛が十三に住して商業を、二男は太田に住して林業を、三男は武田に住して農業を営み兄弟相助けて繁栄をはかったと伝えられます。
文久3〜昭和12(1863〜1937)。富野出身。酒造業を営む能登屋庄右衛門の子として生まれましたが、今別村の素封家吹田和助の二女しでと結婚、実家の姓である中井を名乗りました。吹田家は貿易業を営んでいましたが、村会議員から消防組頭、東津軽郡会議員へと進み、さらに大正6年から4期今別村長を務めました。
在任中、今別電燈梶E上磯汽船鰍創立するとともに、上磯鉄道期成同盟会を結成し、今日の津軽線開通の基礎を作るなど上磯地方の交通整備に尽力しました。
大正10年今別大火に際しては役場を観音堂地に移し、被災民の救済と同時に復興に努力しました。昭和に入ってからも、今別営林署の誘致や大川平・二股木炭信用販売購買利用組合の運営にあたり、地方産業開発に努めました。
慶応元〜昭和4(1865〜1929)。宮川生まれの豪農。村会議員・郡会議員・県会議員などを勤めた後、大正10年第6代中里村長となりました。また西北産馬組合長として農事の改良、畜産の振興に尽力し、大日本農会より名誉賞を授与されたほか、第五十九銀行並びに津軽鉄道重役として実業界において活躍しました。
明治15〜昭和7(1882〜1932)。五林の人。少年のころから秀才のほまれ高く、陸軍幼年学校から陸軍士官学校に進み、卒業して当時教育総監部にいた一戸兵衛大将の部下として勤務、日露戦争当時は健康を害して出征はしませんでしたが、よく軍務に精励して陸軍少佐から中佐に栄進しました。
明治24〜昭和39(1891〜1964)。薄市出身。自転車業界で東北6県を制覇しました。青森中学校卒業後、五所川原でマルチンの屋号を掲げた自転車販売業を創始。東北・北海道のオートバイ競争大会を催して県下の同業者を驚かせました。その後東北全域に商圏を拡大し、ゼブラ自転車の東北総代理店へと成長させました。
青森県自転車卸商業組合理事長・県交通安全協会長・市消防団長・商工会議所副会頭・簡易裁判所長亭委員などの公職も務め、紺綬褒章・警察庁長官賞などを受賞しました。
明治30〜昭和29(1897〜1954)。宮川出身の実業家。市三郎の長男として生まれました。旧制弘前中学校を卒業後、とくに青年運動に挺身するとともに、中里体育協会長となってグランドの新設などに尽力しました。また父市三郎の後を継いで、産馬事業も手掛け、地方競馬の育成に尽くしました。
実業界にあっては陸奥銀行取締役、津軽鉄道取締役などを経て、弘南バス社長に就任し、津軽地方の交通網完成のために専念しました。また琴古流を修めた尺八をはじめ、馬術・射撃・テニスなど多趣味で知られていました。
文久2〜大正11(1862〜1922)。五所川原の素封家平浪家の三代目。勤倹力行を重ね、布嘉財閥に次ぐ県下第2位の平浪財閥を築き上げました。特に植林事業に力を注ぎ、梵珠山ろくの飯詰地区から中里、相内方面まで広く投資開発しました。大地主として小作人や借家借地人に対する慈愛の念深く、かつて、その問に紛争を起こしたことはないといわれます。相続税審査員、県森林会議員、産業調査委員などに選ばれ、大正6年には貴族院議員に当選しました。