科学と文化の探求者


外崎 覚

安政6〜昭和7(1859〜1932)。中里生まれの漢学者・史家。工藤他山の二男。幼名覚蔵、後に外崎家を継ぎ、外崎覚と称しました。東奥義塾に学び、17歳で三条実美に立憲政治実施に関する建言書を提出しました。

川田剛三島毅に従学し、東奥義塾で漢学を教えましたが、のち文部省維新資料取調員から宮内省に入り、「殉難録稿」を編集、陵墓監、御用係などを勤めました。「弘前城主越中守津軽信政」「津軽信明公」などのほか、未刊の郷土資料、記録類が弘前図書館に保存されています。森鴎外の小説「澁江抽斎」に実名で登場することでも知られています。

 

高山松堂

明治2〜昭和34(1869〜1959)弘前の書家で、文堂の長男。木名は亀代作。明治17年県立師範学校を卒業し、習字科教員免許状を得、県立弘前中学校で習字、国漢文を教授すること30余年に及びました。津軽地方の社寺号や、奈良七五郎銅像銘板をはじめとする石碑などを多く手掛け、特に隷書にすぐれていました。

 

葛西耕芳

慶応元〜昭和28(1865〜1953)。北津軽郡長橋村神山(五所川原市)出身。五所川原初等師範学校卒業後、武田村富野小学校に赴任。2年後青森師範学校に入学し、卒業後は県内各地の学校を歴任しますが、明治26年退職して北海道に渡りました。

翌27年には千島列島を探険し、硫黄鉱の採掘等を行いました。その後は函館に移って、同港豊川町において倉庫業を始めるなど、実業界で活躍し、北海道道会議員や函館貯蓄第百十銀行の重役などを勤めました。

 

彌富破摩雄

明治10〜昭和23(1877〜1948)。熊木児出身。国学院を卒業して学習院に教鞭をとり、ついで宮内省に転じ、現天皇はじめ各宮の伝育官を拝命しました。大正10年官立弘前高等学校に来任し、国文学の教授をしました。

宮越麗子など地方の文人との交友があつかったほか、各校の校歌の作や、奈良七五郎記念碑の選文を多く手掛け、地方との接触を大事にしました。昭和19年の退官後は房州に隠栖しました。

 

宮越正治

明治18〜昭和13(1885〜1938)。尾別出身の漢詩人。宮越家の宗本家に生れ磯山と号しました。漢詩は奥田抱生に師事し、弘前長勝寺住職山口彰真とも友交がありました。古詩に詳しく昭和4年頃随縁集・禅余集の2冊を翻刻し、遺稿に古詩調の紫燕棲詞鈔2冊があります。庭園造りにも定評があり、同家の静川園には、逓信大臣安達謙蔵などが訪問しました。

 

宮越麗子

漢詩人宮越正治の夫人。女流歌人として知られ、麗華と号しました。昭和の初期から短歌の研究を始め、旧制弘前高等学校教授・彌富破摩雄先生に師事するとともに、他地域の歌人と交流して作歌の道を究めました。昭和12年数千首の作品の中から500首を選んだ歌集「紅蘭」を発行し、その後佐藤佐太郎主宰の歌誌「歩道」の同人となり、92才で他界するまで作歌を続けました。

 

奥田順蔵

明治?〜昭和28(〜1953)五所川原出身。自治功労者・郷土史研究家。北津軽郡書記から飯詰村長となり10年在任、その後大正2年第4代内潟村長となり、16年間在職しました。その間内潟村村有財産の統一、納税完納などに努め、模範村の育成に成功しました。

一方、郷土史・考古学の研究者としても著名で、十三史談会の結成ほか、青森県歴史調査委員を務めるなど、西北五地方の歴史研究に大きな業績を残しました。

 

高橋長八

豊島出身。木造中学から仙台二高を出て東大農学部農芸化学科を卒業、同大学助手から講師となり次いで福島県農事試験場技師、茨城県産業技師、同県農事試験場長等を歴任、昭和18年(1943)退職、鐘紡へ入社、同20年退社して郷里へ帰り悠々自適の生活に人りました。元県議奈良七五郎の実弟にあたります。