近代化の推進


坂本弥左衛門

文政6〜明治29(1823〜1896)。北津軽郡田茂木村の人。長らく惣代を務めた後、第1回青森県会議員選挙に当選しました。誠実明朗で座談に長じ信望が厚かったとされます。

 

館山善左衛門

天保7年〜明治8年(1836〜1875)。弘前藩士。はじめ正倫のち有孚。父は善兵衛韶。津軽承昭に仕え、諸手足軽頭50石。明治元年(1868)4月、朝廷による庄内征討の命を受けた弘前藩は、善左衛門の率いる一中隊を山形へ出征させました。善左衛門は、山形新庄において奥羽鎮撫総督府の沢為量副総督から、菊章の軍旗と法令状を受けとり、副参謀として活躍しました。廃藩後は北津軽郡深郷田村に移住し余生を送りました。

 

前田良平

安政元〜昭和11(1854〜1936)。深郷田出身。阿部多吉長男。津軽藩小泊砲台守備要員を志願、採用となり、勤務成績と人物を認められて砲台長の養嗣子となり、前田姓となりました。明治27年北津軽郡小泊村役場収入役となり、43年と大正3年の2回小泊村長に就任。

任期中、奔走して小泊、相内両小林区署を小泊村の国有地である湯の沢に統合設置し、また東津軽郡三厩村竜飛部落との漁業入会の問題、境界確定の問題に取り組んで行政訴訟に持ち込み勝訴を得ました。山林資源開発並に林政に深い関心をもち、後年、北津軽郡会副議長を務めました。

 

井沼覚五郎

安政5〜昭和10(1858〜1935)。中里出身。村政に参与し、大正8年には郡会議員となりました。

 

井沼益太郎

明治6〜昭和21(1873〜1946)。中里出身。東奥義塾卒業後、村助役を経た後郡会議員を務めました。大正14年には第7代中里村長となり、1期在職しました。西北五地方における養蚕の先駆者であり、私財を投じて養蚕の普及に努めました。

 

塚本健三郎

明治29年〜昭和28(1896〜1953)。福浦出身。青森師範学校卒業後、わずか28歳で校長に抜擢されましたが、病のため退職。やがて、村の産業組合長となり、村会議員を経て、第3代・第7代武田村長を務めました。温厚篤実の士で、村の自力更生団長などをつとめるなど、村民の教化運動にも尽力しました。