精神修養の巨人


工藤日諄

天保11〜大正11(1840〜1922)。高根生まれの宗教家。幼名与助。子供の頃から英才の誉れ高く、13歳で京都の日蓮宗本山参りをして修業、15歳で梅沢村柏木(鶴田町:旧小阿弥村)の法華寺で得度すると、中津軽郡独狐村(弘前市:旧高杉村)感応寺の住職となり、さらに日精寺・本垂院・法立寺などの住職を歴任しました。

その後水戸大学林の教授となり、次いで京都本満寺の貫主となりました。本満寺においては44年間在職し、後年大僧正となりました。

 

外崎専四郎

享和2〜明治16(1802〜1883)。宮野沢出身。親孝行者として明治15年、緑綬褒章を下賜され、褒章簿冊第1号に登録されました。

篤農家として、あるいは人格者として村民の敬愛を集め、いかなる村中での紛争も外崎の篤実な仲裁で直ちに解決されたと伝えられます。納税完納者第1号でもあり、一家総親和の模範として地方の評判を高めました。

 

三浦きわ子

嘉永4〜明治10(1851〜1877)。津軽藩士羽賀常太郎の長女。藩士三浦兵次郎に嫁し、明治4年廃藩置県のとき中里村に移住しました。貧しい暮らしにもよく耐え忍び、昼夜機織をして衣食にあてていたと伝えられます。

明治10年6月の失火で、居宅はたちまち火煙に包まれましたが、きわ子は姑と二人のこどもを身をもってかばいながら救出し、自らは大火傷を負って死亡しました。青森県は祭粢料15円、旧津軽藩主は金50円を贈って婦道の鑑と讃えました。

 

川口栄之進

元治元〜昭和23(1864〜1948)。弁護士・政治家。青森県弁護士会長。弘前の生まれながら、版籍奉還にともなう水田整理により、明治4年羽野木沢(五所川原市:旧北津軽郡七和村)に転住、さらに同9年には北津軽郡宮野沢村(中里町)に転住しました。同12年中里小学校卒業後、同校助教員となり、その後東京に遊学、立教学院を卒業しました。

その後弁護士資格を取得し、23年青森に帰って弁護士を開業、以来法曹界の重鎮として活躍しました。また青森市議会議員・県議会議員等を勤め上げ、この間青森市会議長、青森商業会議所顧問などの要職につきました。熱心なキリスト教信者としても有名でしたが、昭和23年1月、惜しくも交通事故で逝去しました。

 

楠美龍祥

明治4〜昭和19(1871〜1944)。青森の正覚寺31世(貞蓮社、瑞蓮誉、龍祥)。津軽郡七和村高野(五所川原市)楠美儀助の二男。14歳で、先師龍弁について得度し、長じて板柳町大善寺、沿川村薬王寺中里村善導寺などの住職を経て、大正3年(1914)45歳で正覚寺住職となりました。

新書院、位牌堂、骨堂、木堂、屋根を葺替、山門観音堂及び倉庫の改築を行なったほか、1万余円の祠堂金、一町余の田地の寄贈を得て寺門経営の基礎をつくりました。浄土、宗会議員3期、一宗最高の機関の審議員、顧問をつとめ、その功績に対して管長から正僧正讃教の僧教階に叙せられました。また浄土宗東北連合会議長、青森仏教会長、青森県慈晃会理事等の要職を歴任しました。