新田開発の功労者


櫛引甚吉

慶長17年〜元禄7年(1621〜1964)。武田源左衛門の祖先。津軽領金木村に居住。代官役、金木御蔵奉行、八幡御蔵奉行、代官手代、御用木山の五役を兼ねました。没年83。

その子も櫛引甚吉を称し、先代から引き継いだ諸役のうち八幡御蔵奉行は徳田伝兵衛に、金木御蔵奉行は叔父甚九郎に、代官手代役は小田川村の櫛引甚六にそれぞれゆずって、喜良市村に引越し、御用木山役専任となりました。

 

徳田伝兵衛

徳川中期。金木新田開拓の功労者。元禄11年(1698)より、水利関係の奉行として、長さ1381間(約2.2キロ)の川倉川、ならびに長さ2210間(約4キロ)の才ノ神川開削を指揮しました。また藤枝溜池を造成するとともに、岩木川の堤防築造などにも尽力しました。

これらの工事の成功により、宝永2年(1705)には新村18ヶ村、田地438町2反、畑84町6反の造成に成功しました。

 

鳴海勘兵衛

元禄時代の人。五所川原新田開拓の功労者。祖父は神山館主、左京といい、浪岡北畠氏の部下でしたが、天正6年(1578)、浪岡が落城するとともに深浦(西津軽郡)に走り、千葉弾正の食客となったと伝えられます。父小左衛門清祐の後を継いだ勘兵衛は、津軽信政から藩の直営工事の開発派立頭(指揮者)を命ぜられ、五所川原新田15ヶ村の開拓に成功し、五所川原遣初代の代官となりました。また、板屋野木(北津軽郡板柳町)の蔵奉行にも任じられました。

続いて、金木新田18ヶ村の開拓にも尽力し、藤枝溜池(金木町)の築造に協力したり、岩木川堤防の建設にも努力しました。享保6年(1721)病没。

 

新岡仁兵衛

飯詰出身の開拓功労者。堀越城の尾崎喜蔵らの反乱を鎮定した金小三郎信則(新岡七左衛門)の子孫。江戸時代中期の人で、金木町の中柏木や五所川原市長富、中里町高根などを開発しました。

 

松橋半次郎

生没年不詳。開発功労者。先祖は関ヶ原合戦の落人と伝えられ、近江(滋賀県)神崎郡松橋村に居住。万治年間佐竹領山本郡荷船村(秋田県)に移住し、三代半十郎のとき津軽金木組今泉村(中里町)に移り、四代半十郎はさらに富萢村(車力村)に転任、庄屋となり帯刀を許されました。五代目の半次郎は、宝暦9年(1759)庄屋となり、30石、五人組、木造・広顔両組の諸山見継役として植林に尽力したほか、下繁田村を拓くなど新田開発に多大な貢献をしました。

 

伊沼庄兵衛

徳川時代後期の豪農。津軽9代藩主寧親の廃田復興、新田開拓に協力し寛政4年(1792)に開発取扱加担役に任じられ、主として金木組(北津軽郡北部)を担当したと伝えられますが、生没年代などは不詳です。

 

斎藤甚助/元次郎

斎藤甚助は、津軽随一の豪農として知られる岩館村(南津軽郡平賀町)の斎藤家6代目で、三女おふつを中里村の豪農加藤八九郎のもとへ嫁がせました。また7代目を継いだその子元次郎は、中里村加藤八九郎の娘いとを妻にしましたが、27歳の若さで死去しました。残された妻いとも、元治郎の死んだ翌月21歳で没しています。

 

工藤弥兵衛

?〜享保4年(〜1719)。広須・木造新田開発、屏風山仕立ての功労者。丸山村(西津軽郡木造町-旧越水村)工藤家の3代。延宝4年(1676)父弥三兵衛の家督を継ぎ、翌年3月人寄役を命じられました。弥兵衛は、同時代の館岡村(西津軽郡木造町)の野呂理左衛門や石館村の平沢定右衛門らとともに数々の開拓に実績を残したほか、正徳4年(1712)には広須新田普請奉行を命じられ、金木新田福井村(現在の田茂木)や岩木川の普請などに従事しました。

 

加藤八右衛門/八九郎

江戸〜明治にかけての豪農。加藤家はもともと能登半島正院村で海運商を営んでいましたが、寛文2年(1662)初代八右衛門に至って中里村に永住したと伝えられます。酒屋や材木商をしながら水田の開拓に従事し、地方きっての豪農となりました。代々、奇数代は八右衛門、偶数代は八九郎を襲名しました。篤農家として知られ、天明の大凶作時には私蔵を開いて窮民を救ったり、藩の八幡御蔵を預って勘定小頭格を勤めたりしました。

また享保(1716〜)の頃には多額の御用金を納めるなど藩の財政に貢献し、代々郷士、金木組大庄屋などの役目を仰せ付けられました。

 

楠美太素(荘司)

文化2〜明治5(1805〜1872)。則敏、通称悠作、嘉永3年荘司と改め、さらに太素と改めました。晦山と号します。津軽藩の幕末期における参政。安政7年(万延元年)領内の製紙事業拡張の任に当たり、翌文久元年(1861)今泉鉄山の拡張事業に努めました。

詩、書をよくし、さらに平家琵琶に巧みで、明治3年津軽承昭より先代順承遺愛の琵琶撫子、小男鹿、五月雨の三面を賜わりました。また印章彫刻は、藩主の雅印を任されるほどの腕を有していました。

 

星 弘道

水戸出身の医者。幕末のころ、今泉において和紙の原料となる楮の植林事業を実施しました。

その頃津軽藩主承昭は物産興業を目指し、和紙の生産を計画しました。安政6年(1859)楮仕立ならびに紙漉座御用掛りに任命された用人楠美荘司は、楮に詳しい星弘道に命じて、今泉村(中里町)の一山に植え付けをさせました。前年弘前に来て医療に従事していた弘道は、居を今泉村へ移して楮の植林に尽力し、この成功により津軽各地に植林事業が広がりました。