相撲王国への道


源氏山頼五郎

元治元年〜大正8(1864〜1919)。今泉出身の力士。本名青山又市。青年時代から「山猫」の四股名で活躍していましたが、明治15年田舎館村出身の「一ノ矢(後に大関)」のあとを追って高砂部屋へ入門。同年5月、「今泉」の四股名で初土俵を踏み、明治22年入幕を果たしました。左差し、下手投げを得意とし、相撲通はその取口を評して「白無垢鉄火」と誉めたたえました。

度々脱走を繰り返しながらも明治29年には小結に昇進し、四股名を「源氏山」に改名しました。翌年には関脇に昇進しましたが、道楽好きが高じて平幕に転落、休場がちになるとともにアメリカ巡業の勧誘に乗って渡航計画を立て、明治37年 5月協会を除名されました。晩年は恵まれず、青森、北海道と転々と渡り歩いた末、大正8年函館で没しました。

初土俵 明治16年 5月

新十枚目 明治21年 5月

新入幕 明治22年 5月

最高位 関脇

最終 明治37年 5月

通算 29場所 80勝48敗38分17預107休

得意手 左四つ、下手投げ 身長 体重 174cm 98kg

 

十三ノ浦金四郎

明治18年〜大正3年(1885〜1914)。中里生まれの力士。本名岩田金四郎。東奥義塾在学中に入門し、明治36年「十三ノ浦」の四股名で序ノロにつきました。明治42年十両入り、44年には入幕を果たしました。

左四つからの寄りを得意とし、入幕3場所目には西前頭9枚目へ進みましたが、病気のため大正2年には十両へ陥落。翌3年西幕下9枚目を最後に廃業、同年10月青雲の志を遂げずして28歳の若さで亡くなりました。当時の力士社会には珍しくインテリで文章をよくしたため、新橋倶楽部事件の際には力士側の書記役をつとめました。

初土俵 明治36年 5月 序ノ口

新十枚目 明治42年 6月

新入幕 明治44年 2月

最高位 前 9

最終 大正 3年 1月

通算 4場所 9勝14敗6分2預9休

得意手 左四つ、寄り切り、突っ張り 身長 体重 170cm 120kg

 

出羽の花義貴

昭和26年〜(1951〜)。富野出身。本名野村双一。武田中学校卒業後、五所川原農林高校に勧誘されて相撲部に所属し、国民体育大会(長崎)の高校の部で団体優勝しました。その後日本大学へ進み、学生横綱のタイトルを獲得、卒業後出羽海部屋へ入門しました。

昭和49年四股名「野村」で初土俵を踏み、紆余曲折を経ながら昭和52年には入幕を果たし「出羽の花」を名乗りました。昭和54年には関脇まで昇進し、幕内在位43場所を達成しました。この間三役の常連として度々大関候補に挙げられましたが果たせず、昭和63年引退を表明しました。角界随一という握力で前まわしや左下手を取り、寄り切りや上手投げに持ち込む豪快な相撲は、実力派の名にふさわしく、大向こうをうならせるとともに三賞を多く受賞しました。現出来山親方

本名 野村 双一 生年月日 昭和26年 5月13日

出身地 青森県北津軽郡 初土俵 昭和49年 3月 幕下

所属 出羽海[9] 新十枚目 昭和50年 5月

改名歴 野村→出羽の花 新入幕 昭和52年11月

最高位 関脇 最終 昭和63年 1月

通算 62場所 441勝483敗6休 次1殊1敢5技4金2

得意手 左四つ、寄り切り、上手投げ、小股掬い 身長 体重 186cm 122kg

 

津軽国

本名秋元久伍。昭和32年(1957)初土俵を踏み、先輩の栃の里(飯詰出身)を追い越して関取の座を獲得したが、身体の故障に苦しみ、十両を最高位に引退しました。身長178cm、体重77.6kg。