古唐津概説


「唐津焼」は、肥前地方(佐賀県から長崎県一帯)で生産された施釉陶器を総称したものです。同地域では中世末より日常雑器を量産していましたが、土味あふれる質朴さから、茶の湯が流行した桃山後期〜江戸初期にかけて茶人に賞翫され、「一井戸(または高麗)、二楽、三唐津」とまで称されるようになりました。

唐津焼の名称は、初期唐津焼製品の積出港である唐津(佐賀県唐津市)に因んだものと推測されており、現代においても九州沿岸や山陰・北陸地方では、「瀬戸物」同様焼き物の代名詞として使われています。

開窯の時期については諸説ありますが、室町末(16世紀後半)には岸岳周辺(佐賀県東松浦郡北波多村)諸窯(飯胴甕・帆柱・皿屋・山瀬など)を中心に、操業が開始されたと考えられています。岸岳は中世倭寇として活躍した松浦党の領袖波多氏が代々居城とした地であり、山麓の諸窯も波多氏の管理下に操業されていたと見られます。これらの窯の担い手について、窯構造や釉胎・器形・作調等の類似から、波多氏が連れ帰った朝鮮半島北部の陶工に比定する説があります。

岸岳系唐津は、文禄3年(1594)波多氏の改易にともなって一端廃絶しますが、豊臣秀吉による朝鮮出兵文禄・慶長の役159298)の前後に渡来した李朝の陶工達により、新たな唐津陶器窯が続々と開かれました。このころが唐津焼の最盛期と考えられ、日常雑器を中心に急速に流通圏を広げ、中世以来の伝統を誇る瀬戸美濃と国内陶器市場を二分するまでに成長しました。

やがて江戸時代前期に磁器が焼かれるようになり、さらに染付赤絵等の技術が開発されるに及んで、焼き物の需要は陶器から磁器に移行します。有田を中心とする磁器窯は盛行を極める一方、唐津陶器窯は岸岳系の一部を残して次第に衰退していきます。

唐津焼の創始期である16世紀後半から、慶長元和年間の最盛期を経て、衰退期に転ずる17世紀半ば頃まで、約70年間にわたって生産された唐津焼をとくに古唐津と称しています。

[参考文献]

中里太郎右衛門 1977「唐津の歴史と陶技」愛蔵版日本のやきもの 5

小山冨士夫1986「唐津焼」古唐津 出光美術館

水町和三郎 1986 古唐津」古唐津 出光美術館

佐賀県立九州陶磁文化館 1987 『土と炎―九州陶磁の歴史的展開―』

林屋晴三 1989「唐津概説」日本の陶磁 5唐津

大橋康二 1993『肥前陶磁』考古学ライブラリー55