中里町の林業について


はじめに

  戦前までの山仕事は、伐採から運搬までの作業を人や牛馬に頼り、おもに農閑期を利用しておこなわれていました。林業に関連した製材・製炭・木工・柾割・竹採取・竹細工などもさかんでしたが、戦後機械化が進行するにしたがい、製材業以外は下降線をたどってきました。また近年では製材業も木材伐採量低下など厳しい状況が続き、経営の合理化が進められています。今後の林業は経済性ばかりでなく、国土の保全・自然維持など環境問題との調和が求められていくことでしょう。  

 

林政の移り変わり

 青森県には、総面積の67%にあたる643,000haの森林があります。その中で国有林の占める割合は、全国平均の1.5倍以上となる61%に及んでいます。青森県が美林を保ってきた理由としては、江戸時代における弘前藩の保護育成政策をあげることができます。

弘前藩では、「見継山」「抱山」「田山」など山林に種々の名称を付けて監督保護しましたが、直営の山林を「本山」と称し、「上山通り」「中山通り」「外ヶ浜通り」「西浜通り」「御抱合山」に区分しました。実際の管理保護は、山下の村々が担当し、働き場として恩典に預ることが少なくありませんでしたが、盗伐や山火事は厳重に処罰されました。天和年間に山火事を起こした中里地域の宮野沢村は、罰として貢租(税)率を引き上げられました。

 明治維新後は、旧藩における山制が無視され、私有・共有の証文のない山はすべて国有林に編入されました。それまで薪材の雑木や飼料の草を採取するなど、山に生活の多くを依存していた山村の人びとは厳しい規制を受けることになりました。人々の不満は募り、全国で返却運動が展開された結果、明治32年には「国有土地森林原野下戻法」が施行されました。青森県では全国最多の2,910件にもおよぶ申請が出されました。実際に下戻されたのはわずかに79件のみで、殆どの申請は却下され、現在に至っています。

 

国有林の管理運営

 国有林の管理は、はじめ民部省地理局が行い、明治7年には内務省地理寮の所管となり、青森に地理局出張所が置かれました。明治19年には大小林区署制度の公布により、青森には大林区署が設けられ、中里には薄市小林区署が置かれました。薄市小林区署は、明治37年中里に移転して、中里小林区署と改称されました。ついで大正13年には青森大林区署が青森営林局に、中里小林区署は中里営林署と改められました。  

  以来70年以上にわたって、中里地域の国有林の管理運営は中里営林署が行ってきましたが、営林署の統合によって平成7年3月から金木営林署、平成13年8月からは津軽森林管理署で管轄するようになりました。

管理署の仕事には、樹木を伐採し丸太にして販売する製品生産、伐採したあとに植林して必要な手入れをおこなう造林、木材の運搬や造林のために道路をつくる林道、川の土砂を安定させたり山くずれを防止する治山の各事業があります。中里営林署のあとには、木材生産や造林・森林の取り扱いについての技術開発や試験・研究をおこなう東北森林管理局青森分局森林技術センターがおかれています。

東北森林管理局青森分局では、国有林をそれぞれの性格のちがいによって、水土保全林・森林と人との共生林・資源の循環利用林の3つに分類し、各森林が機能を十分に発揮できるように管理しています。

 

中里町の山林

   中里町の森林面積は9,752ha達し、土地総面積の3分の2を占めます。そのうち国有林が8,320ha、民有林が1,432haとなっています。天然林は全体の51%をしめ、ヒバのほかに、ブナ・ナラ・イタヤカエデなどの広葉樹もみられます。とくにヒバは、江戸時代から弘前藩によって保護され、現在では「青森県の木」に指定されているほか、日本三大美林[青森ヒバ・秋田スギ・木曽ヒノキ]の一つに数えられています。湿気・シロアリに強く、耐久性に優れる材質で、江戸時代から弘前城や長勝寺(弘前藩菩提寺)三門等に利用されています。一方、全体の44%をしめる人工林は、成長のはやいスギが多く(人工林の80%)、残りはアカマツ・クロマツなどのマツ類となっています。

                                                    樹木の伐採は、昭和40年代半ばまで毎年30,000立方メートル以上でしたが、近年は減少傾向にあります。また、昭和50年代前半までは、伐採量の70%をヒバがしめていましたが、現在は30〜40%台に低下しています。天然林の伐採は、以前は樹木全部を一度に伐採し、その後スギなどを植林する方法がとられていましたが、現在では伐採を樹木の3割以内におさえ、その後は植林をせずに自然の力で森林をつくっていく方法がとられています。この方法には、貴重な資源であるヒバを長期間にわたって利用できることや、森林の環境を急激に変化させないなどの長所があります。

 

中里町の林業

 木材を丸太にして販売するまでには、伐採→造材→集材→運材の生産工程があります。明治時代には、ほとんどの作業が人や牛馬車によって行われていました。集材はおもに冬の間、ヨヂやバヂと呼ばれる雪橇によって行われました。

   その後、トロリー(電気で走る自動車)が使われるようになると、夏の間の集材も可能になりました。さらに、空中にワイヤーを張って木材を運ぶ集材機が出現すると、伐採・造材作業にもチェーンソーが使われるようになり、機械化が急速に進みました。

 現在では、チェーンソーで伐採され、トラクターで集材、その後トラックで運材されるのが普通です。造材にはプロセッサーという大型機械も登場しています。

    また、明治時代以降、中里町ではヒバ材を中心とした木材産業が盛行しました。最も多かった昭和40年には、製材所や木工場が28工場ありました。しかし、その後は少しづつ減少し、平成7年に は12工場となりました。近年ではヒバの防腐・防虫効果のもとになっている成分を利用し、石鹸やシャンプー・入浴剤・坑菌剤などの製品が作られるようになり、全国的にも注目されています。