新たなはじまり(近現代)


@明治維新と青森県

 およそ260年間つづいた江戸時代は、19世紀後半の明治維新によっておわります。各藩が、それぞれの法律によって、領地・人々をおさめる時代から、国家が憲法に基づいて、すべての国土・国民をおさめる時代に変わりました。

 明治時代初期、政府は、藩のかわりに県をおきました。かつての弘前藩領は、八戸藩などとともに、弘前県をへて青森県に所属することになりました。

A新たな行政

 青森県には43の区がおかれ、武田地区の村々は38区、中里・内潟地区の村々は39区となりました。

 続いて大小区制となり、現在の北津軽郡の範囲は第5大区となり、その下に武田地区の8小区と、中里・内潟地区の9小区がおかれました。

 1878年(明治11年)、第5大区は北津軽郡となり、1889年(明治22年)には、多くの村々が合併して、武田村・中里村・内潟村の3村が誕生しました。

  工藤他山碑(中里)           中里小学校

B教育のはじまり

 江戸時代末期、中里地域では、工藤他山(藩学校の先生)などが寺子屋をひらき、子どもたちに学問を教えていました。

 明治維新後は、すべての子どもに教育を受けさせることになり、現在中里にある小学校も、ほとんどが明治時代にはじまりました。

 中里小学校・大沢内小学校・深郷田小学校(後に中里小学校に合併)・尾別小学校・薄市小学校・今泉小学校・武田(富野)小学校・長泥小学校は明治時代、若宮小学校は昭和時代はじめに開校しました。なお、今泉母沢分校(1967年(昭和42年)廃校)・協和分校は、太平洋戦争後に開校しました。

C太平洋戦争と中里

 1941年(昭和16年)、日本とアメリカ・イギリスなどの国々との間で、太平洋戦争がはじまりました。この年に、中里村は町になりました。

 中里からも多くの人が戦争に動員されたほか、小学生も学校を休んで、仕事を手伝わされました。

 1945年(昭和20年)7月15日には、内潟村薄市小学校などがアメリカ軍の空襲をうけ、校舎の一部が破壊されました。太平洋戦争は、その1ヶ月後の8月15日、日本の敗戦によっておわりました。

 町制施行(昭和16年)          ストーブ列車

D新中里町の誕生

 太平洋戦争後は、新憲法が施行され、国民がみずからの義務と権利によって、国をおさめることになりました。中央政府がすべてを決める、中央集権があらためられ、地方の人々が自分たちの手で政治をおこなう、地方自治がはじまりました。

 中里でも新しい動きがおこり、1955年(昭和30年)には、中里町・内潟村・武田村の1町2村が合併して、新しい中里町が誕生しました。

E21世紀の中里

 以上、かんたんに中里の歩みをふりかえってきました。しかし、決してこれでおわりというわけではありません。

 新中里町の誕生から40年以上が経過し、その間もそして現在も、中里は生長を続けています。

 21世紀には、みなさん自身が力を合わせて、新しい青森県や中里をつくり、新たな歴史の1ページを記していることでしょう。