中里地区


「中里」は、おそらく中世以前にさかのぼる、古い地名です。浪岡と十三湊をむすぶ、古道のまん中に位置したことから、つけられた地名とされています。現在の中里地区には、大字中里・宮川・宮野沢・深郷田・八幡・大沢内の集落があります。江戸時代から明治時代中ころにかけて、これらの集落は、それぞれ独立した村でした。

 1889年(明治22年)、6つの村が合ぺいして、北津軽郡(新)中里村となり、役場は大字中里(旧中里村)におかれました。(新)中里村は、1889年(昭和16年)には、(旧)中里町となりました。

 1955年(昭和30年)には、(旧)中里町・内潟村・武田村の1町2村が合併して、現在の(新)中里町が誕生しました。かつての(旧)中里町は、中里地区と呼ばれるようになりました。

     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     

 

 @中 里(大字中里・旧中里村)

 中里の歴史は、約5500年前、縄文時代前期からはじまります。当時は気温が高くなって、海水面が上がり、現在の五林地区は、古い十三湖につきだした、半島のようになっていました。中里城遺跡・五林遺跡(五林館)・中里寺屋敷遺跡などから、そのころの土器や石器が発見されており、すでに人びとが生活していたと考えられます。

縄文時代の石器・土器(中里城遺跡) 平安時代の空壕跡(中里城遺跡)

五輪塔(五林神社)

平安時代(10世紀前半)には、ムラがつくられます。五林遺跡・向町遺跡などわりあい低い地域がその中心ですが、10世紀後半になりますと、中里城遺跡・平山遺跡・大導寺遺跡などのような台地にも、人びとが住むようになります。11世紀前後には、五林館・中里城とも空堀・柵などをめぐらせた、防ぎょ集落となります。

その後の鎌倉時代については、不明な点が多いものの、新関又二郎という豪族がいたのではないかと考えられています。室町時代(15世紀前後)になると、中里城・五林館は、今度は城として使われ、中国製の陶磁器や茶うすなどが出土します。これらの城主としては、高坂修理・中里半四郎などの名前がつたわっています。五林神社には、そのころの墓である五輪塔・宝篋印塔が、今ものこされています。

 その後、村はおとろえましたが、江戸時代初期(17世紀前半)には、弘前藩の領地となり、現在の向町を中心とした中里村ができたと考えられます。はじめは、田舎庄下ノ切遣に属しました。「貞享の絵図(1683年)」には、17世紀後半の村のようすが、描かれています。その後は、田舎庄金木組に所属し、同組の中心的な村として発展していきます。神明宮・荒神宮・弘法寺・真勝寺などの神社や寺は、ほとんどが江戸時代にできました。

貞享の絵図 中里神明宮

大正時代の中里

明治時代はじめ、弘前県をへて、青森県北津軽郡に属しました。1889年(明治22年)には、宮川・宮野沢・深郷田・八幡・大沢内村と合併し、中里村大字中里となりました。1930年(昭和5年)津軽鉄道が開通し、津軽中里駅ができました。1941年(昭和16年)には、中里町大字中里となり、現在に続いています。

 町役場・中央公民館・勤労者体育センター・老人福祉センター・中里小学校・中里中学校など多くの公共施設が集中します。小字として、亀山・紅葉坂・山科・宮川・宝森・汐干潟・平山があります。

 

 A宮 川(大字宮川・旧宮川村)

 宮川の歴史は、約5500年前、縄文時代前期からはじまります。温暖化による海水面の上昇によって、現在の宮川地区は、古い十三湖に面していたと考えられます。五林遺跡(宮川を含む)からは、そのころの土器や石器が、発見されています。平安時代(10世紀)には、ふたたびそのころの土器が出土し、人びとがくらしていたことがわかります。

 

   宮川獅子踊り        宮川稲荷神社

現在の宮川は、江戸時代中期(18世紀前半)、弘前藩田舎庄金木新田の村として誕生しました。最初は、西がわの低地にあった村が、たびたびの水害のため、18世紀前半、現在の位置にうつったとする説もあります。わりあい新しい村ですが、村はずれにまつられている稲荷神社は、はるかに古く、16世紀初めにできたとされています。

 明治時代はじめ、弘前県をへて、青森県北津軽郡に属しました。1889年(明治22年)には、中里・宮野沢・深郷田・八幡・大沢内各村と合ぺいし、中里村大字宮川となりました。1941年(昭和16年)、中里町大字宮川となり現在に続いています。近年、一時おとろえていた、宮川獅子おどりが復活しました。小字として、色吉・霞・種取・鶴泊があります。

 

 B宮野沢(大字宮野沢・旧宮野沢村)

 宮野沢母沢遺跡の周辺からは、縄文時代の石斧が出土しており、縄文人が生活していたことがわかります。平安時代(10世紀前半)には蛍沢遺跡・宮野沢遺跡に大きな集落ができました。これらの遺跡からは、そのころの土器や鉄くずなどが発見されています。

 中世のころ、ある皇子(宮)がいたことから、宮野沢とよばれるようになったとする説もありますが、証拠はありません。確実なところでは、江戸時代初期(17世紀前半)に開かれたと考えられます。はじめは、弘前藩田舎庄下ノ切遣、後には田舎庄金木組に属しました。江戸時代、神明宮があったとされていますが、現在はありません。

 

 宮野沢地区出土の石器・土器      宮野沢白旗神社

白旗神社は、現在の八幡宮(深郷田)が、袴腰岳からうつされたとき、臨時におかれた場所とされています。また、現在の運動公園がある場所には、かつて小さなお堂がたくさんありました。

 明治時代はじめ、弘前県をへて、青森県北津軽郡に属しました。1889年(明治22年)には、中里・宮川・深郷田・八幡・大沢内各村と合併し、中里村大字宮野沢となりました。1941年(昭和16年)、中里町大字宮野沢となり、現在に続いています。中里町立運動公園・町営スキー場などがあります。小字として、宮野沢・蛍沢・浦島・袴腰山があります。

 

 C深郷田(大字深郷田・旧深郷田村)

 深郷田は、約5500年前の縄文時代前期よりはじまります。気温の上昇とともに、大きく広がった十三湖につき出した深郷田は、シジミ貝や魚がたくさんとれ、生活しやすい場所だったと考えられます。深郷田遺跡からは、縄文時代前期の深郷田式土器をはじめ、円筒式土器(前・中期)・十腰内式土器(後期)・亀ヶ岡式土器(晩期)や、土偶・石器などの縄文時代のものが多数出土しています。

竪穴住居(深郷田遺跡) 石器(深郷田遺跡)

土師器(深郷田遺跡)

また、平安時代(10世紀前半)の土器や住居、室町時代(15世紀前後)の陶器も出土しており、長期にわたって、人々が生活していたことがわかります。そのほかの平安時代の遺跡としては、甘木遺跡・一本松遺跡(深郷田館)などがあります。一本松遺跡では、その後11世紀前後に、空堀がつくられ、防ぎょ集落となります。

 その後についてはよくわかっていませんが、江戸時代初期(17世紀前半)には、八幡宮があったとされるので、現在の深郷田もそのころできたと考えられます。はじめは、弘前藩田舎庄下ノ切遣、後には田舎庄金木組に属しました。はじめは、八幡村とよばれ、17世紀中ごろに、深郷田(彦田・福甲田)村となったと考えられます。村の西がわにある善導寺も、そのころにたてられました。

一本松遺跡 太刀振り

深郷田八幡宮

明治時代はじめ、弘前県をへて、青森県北津軽郡に属します。1889年(明治22年)には、中里・宮川・宮野沢・八幡・大沢内各村と合併し、中里村大字深郷田となりました。1941年(昭和16年)、中里町大字深郷田となり現在に続いています。ミズバショウ群生地ほか、津軽鉄道深郷田停留場・中里上水道管理センターなどがあります。小字として、富森・早田・甘木があります。

 

 D八 幡(大字八幡・旧八幡村)

 八幡の歴史も、縄文時代よりはじまると考えられ、八幡遺跡からは、そのころの土器が出土しています。平安時代(10世紀)にも、人々がくらしていたようで、そのころの土器が少し出ています。

 現在の八幡は、はじめ大里村と船岡村に分かれていました。両方の村とも、江戸時代中期(18世紀前半)、弘前藩田舎庄金木新田の村として誕生しました。ただし、村はずれにまつられている稲荷神社は、はるかに古く、16世紀初めにできたとされています。

 

 縄文土器(八幡遺跡)  八幡御蔵跡

 大里村は、18世紀中ごろに、八幡村となったと考えられます。そのころ、富野村にあった弘前藩の米蔵(御蔵)が、八幡村に移され、秋には多くの村から、米が集まりました。

 明治時代はじめ、弘前県をへて、青森県北津軽郡に属しました。おなじころ、八幡村と船岡村が合ぺいしました。1889年(明治22年)には、中里・宮川・宮野沢・深郷田・大沢内各村と合併し、中里村大字八幡となりました。1941年(昭和16年)、中里町大字八幡となり、現在に続いています。八幡保育所などがあります。小字として、八幡・盛山・日向・池田・松虫があります。

 

 E大沢内(大字大沢内・旧大沢内村)

 大沢内の歴史は、縄文時代中期、約5000年前より、はじまります。当時は気温が高くなって、海水面が上がり、現在の大沢内ため池周辺の台地は古い十三湖に面し、生活しやすい場所であったと考えられます。大沢内遺跡からは、そのころの円筒式土器や石器が出土しています。

 平安時代(10世紀前半)には、大沢内遺跡・二タ見遺跡に大きな集落ができました。これらの遺跡からは、そのころの住居や土器・鉄くずなどが出土していますが、その後は、江戸時代になるまで空白がつづきます。

縄文土器・石器(大沢内遺跡) 土師器・須恵器(大沢内遺跡)

庚申塔

現在の大沢内は、はじめ大沢内村と久米田村に分かれていました。両方の村とも大沢内ため池が完成した江戸時代中期(18世紀前半)、弘前藩田舎庄金木新田の村として誕生しました。十和田神社・胸肩神社なども、このころできたと考えられます。なお、両神社は船乗りの信仰を集め、江戸から明治時代にかけて、船絵馬がおさめられていました。

 明治時代はじめ、弘前県をへて、青森県北津軽郡に属しました。おなじころ、大沢内村と久米田村が合併しました。1889年(明治22年)には、中里・宮川・宮野沢・深郷田・八幡各村と合併し、中里村大字大沢内となりました。1941年(昭和16年)、中里町大字大沢内となり、現在に続いています。学校給食センター・克雪センター・大沢内小学校ほか、津軽鉄道大沢内駅があります。小字として、海原・住吉・二タ見・田浦があります。