平成16年度冬の企画展「中里町のあゆみU 原始〜近世編」出品資料
資料名 | 時代 | 数量 | 出土地 | 解説 | |
1 | 深郷田式土器 | 縄文前期中葉(約5,500年前) | 1 | 深郷田遺跡 | 深郷田遺跡は、昭和14年(1939)考古学者白崎高保(中里町白崎家の縁者とされる)によって初めて発掘調査が行われ、出土した土器は「深郷田式土器」と命名された。その後も多くの研究者が発掘調査を行い、数々の成果を上げている。 深郷田式土器は北奥羽地方で発展した「円筒土器」の源流であると理解され、全国的に著名である。 |
2 | 弘誓寺懸仏 | 室町 | 1 | 弘誓寺 | 揚柳観音を御正体とする鋳銅製の懸仏。明治30年代尾別弘誓寺のある台地西麓の苗代から出土した。揚柳観音は、三十三観音の筆頭におかれる観音で、通常は右手に揚柳枝を持ち、左手を乳の上に当てた二臂像で表現される。平安時代末頃に出現した懸仏は、南北朝から室町時代にかけて盛行し、青森県内では50面ほど確認されている(青森県立郷土館 1990『青森県中世金石造文化財』)。 |
3 | 信楽小壺 | 室町 | 1 | 中里ユズリ平 | 中里町における義経伝説の主人公、大導寺力の隠棲地とされる「大導寺屋敷」は、中里川の上流にある山深い台地で、周辺には「大導寺沢」や「寺屋敷」など、由緒のありそうな地名や遺跡が広がっている。かつて「大導寺屋敷」が開墾された際に、礎石らしいものが出土したとされるが詳細は不明である。「寺屋敷」からはかつて懸仏破片が、また周辺の「喜丈上げ」からは宝篋印塔塔身(所在不明)が、「ユズリ平」からは信楽壺が採集されおり、「大導寺屋敷」一帯に中世遺物が濃密に分布することは明らかである。 |
4 | 貞伝作鋳銅阿弥陀如来立像 | 江戸:享保15年(1730) | 1 | 今別町浄土宗本覚寺住職貞伝(1690-1731) が製作した鋳銅仏。享保12年(1727)自分の死期を予知した貞伝は、古鏡や銭貨の寄付を仰ぎ、寄付で得た青銅で高さ3mの卒塔婆を鋳造させた(現在県重宝)。貞伝仏はこの時余った地金で作ったものであり、寸法1寸2分の阿弥陀仏である。弘前の誓願寺本堂復興のため、浄財と引き換えに信者に配られたという。そのため、津軽一円に貞伝仏は分布し、お守り用の携帯仏などに広く使われた。(青森県立郷土館 1996 「特別展図録 西・北津軽の仏たち」) | |
5 | 富野遺跡出土遺物 | 江戸 | 13 | 中里町富野は、岩木川下流域の自然堤防上に位置する、標高約3mの極めて低平な地区である。江戸時代中期出羽秋田郡の大川作右衛門が開拓した村で、金木新田組のなかでは比較的水害を受けることが少なかった地域である。富野遺跡は、同地区の中ほどに所在し、溝状の遺構より近世後期と考えられる陶磁器碗・皿、木製椀、箸などの食膳具のほか、竹・杉などの板材・緑豆が出土した。文献等でしか知りえなかった近世新田の日常的な生活様相が生々しく伝わってくる。 | |
6 | 江戸時代前期の中里地域[陸奥国津軽郡之絵図] | 貞享2年(1685) | 1 | 幕府の命によって正保2年(1645)作成された国絵図の写し。領内各村の石高・道路・里程・一里塚・遠見番屋などが記されている。中里地域では、薄市・尾邊地(尾別)両村が古村扱い、今泉・中里・宮野澤・新田八幡(深郷田)各村は「新田」と記されている。また十三湖は加瀬(嘉瀬)村のあたりまでひろがり、薄市・尾邊地村は湖岸であったことがうかがわれる。絵図原本が作られた当時は、十三〜小泊各村が鼻和郡に編入されているほか、まだ金木新田が成立していないことなどが注意される。また「狄村」とはアイヌの人々の居住村を指す。 | |
7 | 江戸時代中期の中里地域[金木新田之図] | 享保年間 | 1 | 村々の位置や、河川湖沼・道路等が記されており、初期の金木新田の様子がわかる貴重な古絵図である。当時は十三潟が川内村近郊まで迫り、現在よりもはるかに大きかったことがうかがわ制作年代は不明であるが、正徳4年(1714)に開削されたとされる鳥谷川が描かれていること、また享保12年(1727)に実施された金木新田の統廃合・名称変更等が反映されていないことから、その間に作成されたと考えられる。また、右下の覚書きから寅年の制作と考えられるが、正徳4〜享保12間において該当するのは享保7年(1722)のみである。 | |
8 | 飢饉時の食料(救荒食料) | 26 | |||
9 | 不作時の稲 | 昭和55年(1980) | 1 | 南津軽郡 | |
10 | 作年の稲(むつほまれ) | 平成16年(2004) | 1 | 中里町若宮 | |
11 | 円筒下層式土器 | 縄文前期中葉(約5,500年前) | 16 | 深郷田遺跡 | |
12 | 深郷田式土器(弘前大学表面採集資料) | 縄文前期中葉(約5,500年前) | 14 | 深郷田遺跡 | |
13 | 石器 | 縄文 | 41 | 深郷田遺跡 | |
14 | 動物遺存体 | 縄文前期中葉(約5,500年前) | 14 | 深郷田遺跡 | |
15 | 弥生人足跡石膏型 | 弥生 | 2 | 垂柳遺跡 | |
16 | 大沢内遺跡出土遺物(昭和48年調査) | 平安 | 33 | 大沢内遺跡 | |
17 | 大沢内遺跡出土遺物(平成13年試掘調査) | 平安 | 12 | 大沢内遺跡 | |
18 | 白磁碗 | 鎌倉 | 1 | 一本松遺跡 | |
19 | 青磁皿 | 室町 | 1 | 五林遺跡 | |
20 | 宝篋印塔 | 室町 | 6 | 五林神社 | |
21 | 珠洲擂鉢 | 室町 | 6 | 中里城遺跡 | |
22 | 信楽壺 | 室町 | 13 | 中里城遺跡 | |
23 | 脇指 | 室町:寛正年間(1460年代) | 1 | 長さ 54.1p/反り 1.2p 銘 「備州長船勝光」 戦後GHQによる接収を防ぐため、黒漆が塗布されている。 | |
24 | 脇指 | 江戸:寛文年間(1660年代) | 1 | 長さ 44.5p/反り 1.1p 銘「太刀銘近江守藤原継廣」戦後GHQによる接収を防ぐため、黒漆が塗布されている。 | |
25 | 脇指 | 江戸 | 1 | 長さ 63.1p/反り 2.4p 無銘 | |
26 | 津軽信政黒印知行充行状半三郎宛/浜館家由緒書 | 江戸 | 3 | 弘前藩四代藩主信政が金山村(五所川原市)の半三郎に対して、同村30石の領地を認めた公文書。中里の濱館家に伝わったものであり、同家「由緒書」によれば、正保4年(1647)に「小知行派」を命じられ、寛文元年(1661)30石を賜った。「小知行派」は足軽(下級武士)に知行する土地を開発させる方法。弘前藩は、明治維新後領内の豪農から土地を買い上げ、士族に配分し移住させる政策(帰田法)を実施した。濱館家も同政策にしたがって、中里へ移住したものと考えられる。 | |
27 | 銅鏡 | 江戸 | 1 | ||
28 | 陣笠飾 | 江戸 | 1 | ||
29 | 鍔 | 江戸 | 1 | ||
30 | 小柄 | 1 | |||
31 | 具足 | 1 | |||
32 | 貞享の絵図[中里町指定文化財] | 貞享元年(1684) | 1 | 弘前藩は、貞享検地に先だって、各村の庄屋に村の絵図や戸数などを書上げさせたが、同絵図はその写しと考えられている。本村を中心に、用水が網の目のように延び、枝村・寺社・溜池が同心円状に分布する姿は、大枠においては江戸時代前期の中里地域の様子を如実に伝えていると考えられる。 | |
33 | 陸奥国津軽郡田舎庄中里村御検地水帳(複製) | 貞享4年(1687) | 1 | 貞享検地の結果を記した税台帳。田畑・屋敷の場所、面積、石高、所有者名が記されている。巻末には、税免除地として「古館」「神明社地」「荒神社地」等が挙げられている。 | |
34 | 飢饉食(複製) | 3 | 稲藁を2分(6p)ほどに刻み、ゴミを箕でよく飛ばす。それを軽く煎り、臼でよく搗く。その際またゴミがでるので箕で飛ばし臼で搗いて粉にする。できた粉は粥の糅として加えたり、稲藁の粉2升に蕎麦粉5合などを加えて餅とする。*「五所川原市史」所収飯塚家文書により再現 | ||
35 | シダ(粃)米 | 平成 | 1 | ||
36 | 青米 | 平成 | 1 | ||
37 | 三界万霊供養塔(写真) | 江戸ヵ | 1 | 津軽中里駅前 | 「三界万霊、南無阿弥陀佛、有縁無縁」と刻まれていることから、飢饉で亡くなった人々を供養するために建てられた碑と考えられる。地域では、飢饉時の伝承に因んで「清十郎地蔵」と称されている。 |
38 | 猿賀神社船絵馬群 | 天保〜明治 | 10 | 東廻り・西廻り海運の船頭たちは、寄港地の寺社に船絵馬を奉納して航海の安全を祈った。岩木川筋にある富野の猿賀神社には、江戸時代後期から明治時代末にかけて奉納された船絵馬が、88枚保存されている。内陸部の社であり、日本海岸の湊で船乗りが奉納したものとは違う目的を持っていたと思われる。この神社の船絵馬は、境内の近くを流れる岩木川を上下する小廻船の人々に関係深いと考えられる。また一般の農民が奉納したものもあり、民俗史料として貴重な存在である。 | |
39 | 尾別薬師堂俳句奉納額 | 嘉永5年(1848) | 1 | ||
40 | 平尾魯仙画奉納絵馬 | 嘉永元年(1852) | 1 | 平尾魯仙は文化5年(1808)弘前に生まれた。通称八三郎、別号は蘆仙・魯遷・宏斎。国学者で俳諧や絵画をよくし、「谷の響」「合浦奇談」「松前紀行」「宏斎抄誌」などを記し、『合浦山水観』が残されている。中里村には安政2年(1855)松前に渡る際通過したと推測され、中里神明宮に奉納された額は、その際に描いたものと思われる。 | |
41 | 津軽信政黒印知行充行状小山内主善宛控 | 寛永10年(1633) | 1 |
弘前藩三代藩主信義が、小山内主善なる人物に中里地域に知行を与えたことを示す文書の写しであるが、「宮之沢」「八幡」「薄市村」「田之沢」の地名が見える。 知行之目録 高三拾石者 荒 宮之沢之内八幡□上ニ有 高四拾五石者 同 薄市村之内田之沢ニ有 高五石者 同 八幡之上之野ニ有 高合八拾石者 右令扶助所也 但三年之間可為無役百姓等 才覚次第在付可申者也 寛永十年 五月廿七日 御実名 御墨印 |
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42 | 印可状 | 江戸 | 1 | ||
43 | 古文書 | 江戸 | 1 | ||
44 | 倫旨 | 文政3年(1820) | 2 | ||
45 | 田畑永代売渡證文 | 江戸 | 7 | ||
46 | 今泉母沢遺跡出土遺物 | 江戸 | 14 | 今泉川母沢の西岸、津軽山地より南西方へ派生する台地並びに谷部に位置し、現在は国有林となっている。谷部に面した平坦な微高地より、肥前磁器・瀬戸陶器等、おおむね19世紀代と推定される近世陶磁が表採されている。また、同地点ならびに母沢流域には鉄滓が濃密に散布し、近世の製鉄遺跡の可能性が高い。 | |
47 | 宮野沢苗代沢出土遺物 | 江戸ヵ | 5 | 宮野沢集落から苗代沢沿いに徒歩約20分、谷斜面の中腹に横穴が開いており、対岸には半円状に削平された部分(炉跡かどうかは不明)がある。周辺には鉄滓や羽口が散布しており、製鉄遺跡の可能性が高いが、時期は不明である。 | |
48 | 民間信仰碑(写真) | 江戸 | 16 |