実際深郷田遺跡からは、シジミ貝のほか、タニシ、ベンケイ貝など淡水から鹹水性の魚介類が多数出土している。さらに驚くべきことに、クジラやトド・オットセイなど外洋性の海獣類と考えられる骨も出土しているのである。深郷田の縄文人たちはどのような方法で入手していたのであろうか。
また温暖な気候のもとでは台地に落葉広葉樹林がひろがり、トチ・クルミ等の堅果類や小動物も数多くもたらされたと考えられる。背後に小山を控える深郷田遺跡からは、シカや鳥類の骨も出土しており、動物・植物等も豊富に獲れたことがわかる。深郷田ムラは、漁撈・狩猟・採集、いわゆる縄文時代の三大生業の対象となる食料が豊富な土地であった。つまり天候不順等によっていずれかの食料が不調であっても、他の二つの生業で補うことができる非常に安定した食料事情が、深郷田にムラが作られ、長く栄えた理由なのである。
さらに深郷田遺跡からは、北海道の土器も出土しており、津軽海峡を越えて同地と交流があったこともうかがわれる。あるいは先の海獣類はそうした交流によってもたらされたものかもしれない。いずれにせよ深郷田ムラは、古十三湖・日本海を通じて北海道と交流しやすい場所であったことも確かであり、そうしたことも長く栄えた理由の一つである。古十三湖に突き出した野崎(宮野沢河川改修によって消滅した)は、行き交う舟のよい目印になっていたのであろう。
深郷田遺跡は、昭和十四年(一九三九)考古学研究者白崎高保氏(中里町白崎家の縁者とされる)によって初めて発掘調査が行われ、出土した土器は「深郷田式土器」と命名された。その後も多くの研究者が発掘調査を行い、数々の成果を上げている。
深郷田式土器は北奥羽地方で発展した縄文土器の源流であると理解され、全国的に著名である。現在でも、おびただしい土器や貝塚が埋蔵されている深郷田遺跡は、中里町最古のムラとして永久に語り継ぎ保存したい貴重な遺跡である。 |