その後約一千年の空白を経て、再び人々の生活の痕跡が見出されるのは平安時代前期(約千百年前)になってからである。大沢内溜池周辺や深郷田・宮野沢・五林など、現在の集落が広がる低い台地に、古代の村が続々と誕生する。当時の東北北部は国家の管轄外であり、そこに住む人々は「蝦夷」と呼ばれていた。中里地域において古代の村を開いたのも、「蝦夷」と称される人々と考えられる。
人々がどこからやってきたのかは定かでないが、このころ国家の出先機関である秋田城司の圧政に対して、秋田北部に住む「蝦夷」が反乱を起こしている(元慶の乱)。乱の勃発前後には住民の三分の一が、津軽地方ほかへ逃亡したとする記録がみられることから、戦火を逃れたこれらの人々が、中里地域に村を開いた可能性も考えられる。
蝦夷たちは、平野部に水田、台地には畑をつくり、農耕を中心とした生活を繰り広げていた。ただし、そうした生活も長くは続かなかったようである。
最初の村ができてから約一世紀、平安時代中期(約千年前)には、再び大きな変化が訪れる。低い台地につくられた村々は、一斉に放棄され、人々は標高三〇〜五〇mの一段高い台地に移住を開始する。今泉の宝塔様、下高根稲荷神社、尾別観音堂、中里神明宮など、現在寺社が祀られている場所に新たな村が開かれる例が多い。
これら高所につくられた村は、周りを堀や柵で囲まれており、容易に侵入できない構造になっていた。防御を固めたこれらの村は、「防御性集落」と称されている。中里城遺跡(県史跡)は、その代表的なものである。
稲作に便利な低地から、不便な高地に移住した原因については、土地や水利・交易を巡る蝦夷同士の争いが激しくなってきたためと考えられている。防御性集落においては、農業生産をはじめとして、鉄・木工等の各種生産が活発に行われ,また北海道との交易も盛んに行われた。
防御性集落は、平泉の奥州藤原氏が東北北部を支配する平安時代後期(約九百年前)には終焉を迎える。防御性集落の消滅は、中世社会の幕開けとともに、中里地域が国家の領域に含まれたことを意味する重要なエポックなのである。
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