青森県の擦文土器解説T
擦文土器とは
擦文土器のもっとも一般的な特徴は、器面にヘラ状の道具でこすった擦痕(ハケメ)や種々の刻線文(沈線文)がみられることです。弥生土器の系統をひく土師器と縄文土器の伝統を残す北海道系の続縄文土器が相互に影響を及ぼし合いながら形成されたと考えられています。
太平洋沿岸を北上する土師器文化(注1)は、古墳時代より波状的に北海道へ及び、在地の続縄文土器に少なからず影響を与えましたが、擦文土器については7世紀前後に波及した土師器と、最後の続縄文土器(北大式土器)が融合して誕生したとする説が有力です。
そうした土師器文化の影響を受けた土器群(ハケメのある土器・沈線文のある土器など)の出現をもって擦文土器の成立ととらえる一方、本州との文化交流が一時的に停滞したことによって、土師器とは一線を画す北海道独自の文様(鋸歯状や交叉状の刻線文など)が生まれた9世紀以後を、擦文土器の成立時期と考える説があります(注2)。
その後は北海道島を中心に発達しますが、9世紀後半ころには青森県においても散見されるようになり、現在では津軽・下北地方を中心に100ヶ所以上の遺跡で擦文土器の出土が確認されています。北方世界と国家の境界域に位置した津軽地方は、中世以降環日本海地域の交易拠点として重要な役割をはたしましたが、擦文土器の存在は、古代末にすでに津軽海峡をめぐって人や物の活発な交流があったことを裏付けるものといえるかもしれません。
注1 たとえば 八木光則氏は 終末期古墳・蕨手刀の分布などから八戸〜苫小牧ルートを想定している。八木 1997「7〜9世紀の墓制―東北北部の様相―」『蝦夷・律令国家・日本海―シンポジウムU・資料集―』日本考古学協会1997年度秋田大会実行委員会
注2 阿部義平 1999『蝦夷と倭人』シリーズ 日本史のなかの考古学