青森県の擦文土器解説U

本州における擦文土器研究略史


本州における擦文土器の調査研究は、戦後になってようやく端緒が開かれます。昭和26年(1951)明治大学による東通村将木館遺跡(注3)の調査によって、本州初の擦文土器の出土が報告されたのを皮切りに、慶應義塾大学早稲田大学など中央の大学を中心に、主として津軽・下北両半島部を対象とする学術調査が進められ、東通村稲崎遺跡(注4)・市浦村赤坂遺跡(注5)などから出土する擦文土器が紹介されました。

また昭和40年代は、江坂輝彌(注6)・桜井清彦(注7)氏ほか北林八洲晴(注8)・橘 善光(注9)・葛西 励(注10)氏らとくに地元研究者の果敢なフィールドワークにより擦文土器が相次いで報告され、陸奥湾沿岸や下北半島において新たな知見が加えられました。

さらに昭和50年代に入ってからは、青森県県教育委員会による大規模な発掘調査が県内各地で実施されるようになり、資料の蓄積が一気に進みました。とくに岩木川低湿地帯に位置する木造町石上神社遺跡(注11)や、空壕で囲まれた集落(防御性集落)碇ヶ関村古館遺跡(注12)の調査では、それぞれ多量の擦文土器が出土するとともに同土器の終末に関する資料が提供されました。またこのころ、木村鐵次郎(注13)・竹内正光(注14)・松岡敏美(注15)氏らにより新たな資料が追加されるとともに、佐藤達夫(注16)・高杉博章(注17)・鈴木克彦(注18)ら諸氏による県内出土擦文土器の型式編年が提案されました。

昭和60年代の特筆事項としては、擦文後期前葉の一括資料が出土した早稲田大学による蓬田村蓬田大館遺跡(注19)の調査や、福田友之氏による稲垣村松枝遺跡(注20)出土の資料紹介などをあげることができます。また近年では、三浦圭介(注21)氏が土師器を中心とする編年から導き出される擦文土器の年代観を積極的に提示するとともに、擦文の終末に関しても新たな視点を投じています。


注3 岩月康典 1951「下北半島に於ける土師器の竪穴」考古学ノート5

注4 江坂輝彌 1953「青森県下北半島稲崎遺跡調査報告」古代12

注5 桜井清彦 1955「青森県相内村赤坂遺跡について」古代17

注6 江坂輝彌ほか 1965「青森県下北半島九艘泊岩蔭遺跡調査報告」石器時代7

注7 桜井清彦 1968「東北地方の擦文文化について」北奥古代文化1ほか

注8 北林八洲晴 1971「津軽半島における擦文土器の新資料」北海道考古学7ほか

注9 橘 善光 1970「青森県東通村白糠採集の土師器と擦文土器について―下北半島の擦文土器の成立に関する試論―」古代53ほか

注10 葛西 勉 1971「青森市築木館遺跡出土の擦文土器について」撚糸文2

注11 青森県教育委員会 1977「石上神社遺跡発掘調査報告書」

注12 青森県教育委員会 1980「碇ヶ関村古館遺跡発掘調査報告書」

注13 高杉博章・木村鉄次郎 1975 「津軽半島における擦文式土器の新例と問題点」北奥古代文化7

注14 竹内正光 1981 「津軽平野における擦文の遺跡」考古風土記6ほか

注15 鈴木克彦・松岡敏美 1981 「青森県小泊村出土遺物について」とひょう3 ほか

注16 佐藤達夫 1972「擦紋土器の変遷について」『常呂』東京大学文学部考古学研究室編ほか

注17 高杉博章 1975「擦文文化の成立とその展開」史学ほか

注18 鈴木克彦 1979「青森県の擦文文化―擦文文化の外縁圏における一様相―」どるめん22

注19 桜井清彦・菊池徹夫 1987「蓬田大館遺跡」

注20 福田友之 1987「津軽・稲垣村松枝遺跡出土の擦文文化資料」北海道考古学7ほか

注21 三浦圭介 1991「本州の擦文土器」考古学ジャーナル341ほか