青森県の擦文土器解説V
本州における擦文土器の発達
擦文土器の県内初現のものは、大間町割石遺跡や青森市小三内遺跡・三内丸山(2)遺跡で出土が認められます。口頸部から胴部上半にかけて多条の横走沈線を巡らしたもので、加えて単条の斜格子状文や綾杉状文等の刻線文様が見られるものもあります。9世紀後半〜10世紀前半に相当する土師器坏・甕や五所川原産(持子沢系)須恵器坏が共出する例が多いようです。仮にこれをT群と呼んでおきます。
その後、口縁部への短刻文列が綾杉状に施文されるなど複列化が進むとともに、横走沈線上に施される刻線文様の複条化が顕著となってきます。これをU群と仮称しておきます。この時期は良好な共伴事例に欠くものの、鰺ヶ沢町杢沢遺跡の例からは10世紀前半〜10世紀後半の年代が推定されます。
V群は、胴部への横走沈線のかわりに綾杉状や格子状の刻線文様を充填する一群を位置づけたいと思います。また、文様帯の複段化や馬蹄形文等を押捺した貼付文の発達もこの時期の特徴です。口縁部に横走沈線のみを施すものもこの時期に現れるようです。蓬田村蓬田大館遺跡出土の資料が該当しますが、これらの時期は食器様式の画期と考えられ、土師器の把手付土器や内黒壷などの器種が新たに加わります。年代に関しては、10世紀後半〜11世紀前半ころを想定します。
W群は本州内における擦文土器の終末期に位置づけられるもので、碇ヶ関村古館遺跡などの防御性集落や、岩木川低湿地帯の各遺跡で出土しているものです。複雑な地文や貼付文、文様の複段構成はもはや見られず、口縁部の横走沈線のみ、あるいは1〜3条単位の鋸歯状や交叉状刻線文で構成されるものです。なかには刻線文の傍らに短刻文を沿わすものもみられます。共伴する土師器の在り方は明確でありませんが、11世紀前半〜11世紀後半くらいに相当すると考えられます。