青森県の擦文土器解説W
擦文土器のひろがり
現在青森県を中心とした北東北では、100ヶ所以上の遺跡で擦文土器の出土が確認されていますが、殆どは海岸もしくは河川沿いに立地する遺跡です。分布状況を見ると、ほぼ津軽地方と下北半島に限定され、上十三地方では三沢市平畑(5)遺跡の数点のみ、また三八地方では現在のところ出土が確認されていません。
時期的に見た場合、9世紀後半〜10世紀前半の年代が推定されるT群は、出土例・出土量がともに少ないながらも、下北地方もしくは東青地方(鎌倉時代の「外浜」)に限定されるようです。律令国家から王朝国家への転換期とされ、津軽地方においてもとくに中弘南黒地方(鎌倉時代の「津軽四郡」相当)を中心に集落数が激増するほか、五所川原須恵器窯の操業が開始されるなど、大きな社会変化がみられる時期に相当します。
10世紀前半〜10世紀後半に相当するU群の時期には、前代に引き続き下北地方が分布の中心となります。西北五地方(鎌倉時代の「西浜」相当)にも広がりを見せますが、出土量はさほど多くありません。一方、この時期の遺跡が存在するにもかかわらず、東青地方からの出土は目立たなくなるようです。
続く10世紀後半〜11世紀前半のV群は、出土遺跡数が急激に増え、分布域も各時期を通じて最大になります。西北五地方では防御性集落や岩木川低地帯からの出土例が増えるほか、東青地方あるいは中弘南黒地方においても防御性集落を中心に出土例が増加します。
W群の時期には、見かけ上の分布が縮小します。下北地方や東青地方、中弘南黒地方のうち浅瀬石川以北(鎌倉時代の「津軽山辺・田舎郡」相当)では殆ど出土が見られなくなるようですが、元々この時期の遺跡が少ないことも影響していそうです。一方西北五地方においては、引き続き防御性集落ならびに岩木川低地帯からの出土が普遍化し、一遺跡あたりの出土量は前代を凌駕しますが、防御性集落が解体される11世紀末以降は出土が認められなくなります。おそらくこのころには、製作・使用ともに終焉を迎えるのでしょう。
以上のように、現状の分布に基づく擦文土器の消長については、地域によって偏りが見られ、あるいは鎌倉時代以降の郡制に通ずるある程度の地域的なまとまりがすでに形成されていた可能性もあります。