教育の礎


工藤他山

文政元〜明治22(1818〜1889)。教育者・歴史学者。旧姓古川主膳、通称富太郎。他山、拙斎、坦々斎、梨窓陳人などと号しました。弘前藩士古川儒伯の二男として、弘前古堀町に生まれ、天保3年(1832)15歳で稽古館に入学、その後若くして同館典句、助教となりましたが、弘化2年(1845)助教を辞して江戸・大坂に遊学しました。

帰郷後の嘉永5年(1852)中里村に隠棲、寺子屋を開いて子弟を教授しました。その後青森鍛冶町の寺子屋を経て、慶応3年(1867)稽古館に招かれ助教に就任、その一方で弘前市五十石町に私塾思斎堂を開講しました。明治3年(1870)一等教授へと昇任しましたが、同5年には稽古館教授を辞し、私塾向陽塾の経営に専念しました。明治の政論家陸羯南は当時の門弟です。同10年東奥義塾開校とともに招かれて教授に就任、同17年同塾を辞して津軽藩史編さんに専念しました。同22年2月没。72歳。

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斎藤廉丞

嘉永元〜明治44(1848〜1911)。津軽藩士である幸之進の三男。津軽藩校稽古館で皇漢学を修業、また明善館で元津軽藩士須藤寛吾につき皇漢学を講究、合わせて生徒を教授しました。明治5、6年町居村(南津軽郡平賀町)で私塾を開設、同6年東京に遊学、同10年弘前白銀小学校で元訓導鹿内喜典から授業法を習った後、北津軽郡武田村富野小学校(武田小学校)の創立にあたり、村民から請われ初代校長となりました。

以来、明治44年、現職で死亡するまで35年間勤務し、村民の子弟教育に一生を捧げました。高潔清廉、、礼節を重んじ、恩義に厚く実践窮行、村民に範をたれ、その厳正で慈愛あふれる教導は子弟教育に多大の功績をあげ、慈父のように慕われました。武田小学校校庭には村民が、その功績と徳をたたえて建立した頌徳碑が現在も残されています。

 

加藤源三

慶応3〜昭和18(1867〜1943)。中里出身。加藤定四郎の二男。明治18年青森県師範学校中等科を卒業後、上北郡藤坂村(十和田市)相坂尋常小学校に赴任して以来、大正14年3月に退職するまで42年間同校に奉職しました。

自ら読書万巻に及ぶとともに、児童、生徒、青年、村民に広く読書をすすめ、小学校教育、社会教育はいうまでもなく、村政、経済、産業、信用組合、青年団、処女会、在郷軍人会、消防団、婦人会と村のすべてに関与。誠実温和で清廉な人柄と相まって村民から慕われました。

教育功労者として、大正2年には県知事、同3年には文部大臣から表彰を受け、さらに同13年には実業教育功労者として文部大臣から表彰されました。退職後は教え子の一人苔米地義三(国務大臣)が作った昭和謝恩会の常任理事に就任。世にかくれた徳行、孝子、節婦、奉公人などを表彰し、人材の育成奨励に尽くしました。

一方、自ら農場を経営し、耐冷品種発見のため青年たちを近県に派遣するとともに、農林省稲作冷害試験地の誘致に努め、稲の耐冷栽培法として温床苗代を取りあげるなど、上北地方稲作の先駆者ともなりました。

 

三国谷三四郎

明治12〜昭和22(1879〜1947)。薄市出身。郷土出身の教育家として県外で名声を高めました。青森県師範学校卒業後、数年県内で教べんをとりましたが、その後、東京高等師範学校に入学、卒業後、朝鮮に渡って同地の教職につきました。

数年後に帰国して40代で京都帝大に入学し、のち兵庫県視学官、京都府視学官、京都師範学校長、奈良師範学校長などを歴任、最後は東京都青山師範学校長となりました。また国民学校令の草案委員となり天皇陛下から木杯を下賜されました。

 

三上格馬

明治20〜昭和15(1887〜1939)。北津軽郡喜良市村(金木町)出身。明治41年青森県師範学校を卒業。中里小学校を振り出しに教育界へ入り、嘉瀬、鶴ヶ岡両小学校の訓導を経て薄市、菖蒲川、武田の各小学校長を歴任。

昭和4年退職し、翌年第6代内潟村長となり、2期在任しました。昭和13年退任し、弘前市で老後を過ごしました。

 

葛西国四郎

明治24〜昭和31(1891〜1956)。福浦生まれ。大正3年から教職につき、小学校訓導を経て、五所川原農学校教諭、田名部実科女学校教諭、 八戸高等女学校長を歴任。

その後、弘前和洋裁縫・東奥家政両女学校教員をつとめ、昭和22年五所川原公民館主事、五所川原高等学校講師に就任しました。「新興教育之理念」「革新修身教育方法論」などの著書があります。

 

加藤寿綿

中里出身の教育者。大正3年(1914)青森県師範学校卒業。下前・五所川原女子部・梅田・中里・嘉瀬・長嶋各校の教諭として勤務した後、抜擢されて校長となり、橋本・浦町・長嶋小学校長を経て、上北郡視学となりましたた。

昭和20年(1945)故郷に戻り、中里町助役を務めていましたが、27年(1952)青森市に迎え入れられて教育長の席につき、38年(1963)の退職まで、復興期の青森市教育行政に尽力しました。