旅人が見た中里


吉田松陰

天保元〜安政6(1830〜1859)。幕末の志士にして教育家、長州萩の人。嘉永4(1815)年12月14日、22歳の吉田松陰は江戸の長州藩邸より出奔し、熊本藩の宮部鼎三等と水戸で落ち合い、北日本歴遊の旅につきました。

嘉永5年(1852)閏2月29日津軽入りを果たし、大鰐温泉に浴した後、弘前に入りました。翌3月朔日、弘前で伊東広之進を訪ね、津軽海岸の防備のこと、学校稽古館のことを尋ねました。2日には荒谷貞次郎を訪ね、ふたたび伊東を訪ねて鈴木善三郎と談じ、藤崎に赴きました。

3日板柳、鶴田を経て五所川原、赤堀から岩木川を渡り、蒲原、富野を経て、中里にいたりました。中里では豪農加藤八九家(現在の加藤酒店周辺と推測される)に宿泊し、翌4日北へ向けて出発しました。

十三沢辺を過ぎ山を越え、脇元を経て、小泊に宿泊。5日小泊砲台下を過ぎ、膝を没する湿地をわたり、算用師峠を越え二三尺の積雪を歩いて三厩に出ました。この道は藩で旅人の過ぎることを厳禁している道でした。その後、平舘より船に乗って青森に入り、黒石藩領平内・南部藩領を経て、4月10日にいたって長州藩邸に帰着しました。

亡命の罪で一端は士籍を削られましたが、諸国遊学の許可を得ました。安政元年(1854)には、海外渡航を企てて失敗し、獄に投ぜられました。翌年出獄して松下松塾を開いて子弟の教育にあたりましたが、安政の大獄によって刑死しました。没年30。

松陰の東北巡遊は、広く各地の志士と交わって国事を談し、民情を視察し、殊に津軽半島に出没する外国船に対する防備の有様を見ることにありました。その旅は苦労の連続でしたが、安らぎの一時もありました。十三潟(十三湖)の潟縁を過ぎ、小山を越えたところ、眼前には初春の穏やかな風景が広がっていました。松陰は日記に次のように記しています。“山は潟に臨みて岩城山に対す。真に好風景なり

昭和6年5月、土地の有志は松陰がこの地に遊んだことを記念し、建碑を企画し、碑背の撰文は青森県知事守屋磨瑳夫に托し、碑表は徳富蘇峰の揮毫に成る「吉田松陰遊賞之碑―蘇峰・菅正敬書」と彫った碑を、十三湖の旧小泊道と現在の国道の分岐点に建てました。その後、昭和30年代の道路拡張工事中に倒壊し、破損してしまいました。一端は修復されましたが再び破損し、やがて市浦村の佐藤慶治氏によって修復され、市浦村相内の蓮華庵に建立されました。 一方、中里町においては昭和39年再建の論議が起こり、地元の書家下山正夫氏が蘇峰流に真似て揮毫した碑が、初代と同地点に建立されました。それが2代目の碑です。

さらに風化が進んだ2代目の碑にかわって平成4年に建てられたのが、現在中里町今泉の十三湖岸公園内にある三代目の碑です。初代の碑を忠実に模して造られましたが、石質は黒御影に変更され、建立地点も500m程南側の現地点に移動しました。ちなみに、2代目の碑は、役目を終えて現在の碑の下に静かに眠っています。

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木村謙次

宝暦2〜文化8年(1752〜1811)。江戸後期の北辺探検家。常陸天下野村生れ。名は謙、字は子虚、通称は謙次、また謙次郎、号は礼斎・酔古・愚鈍を名乗りました。儒学を立原翠軒に、医学を谷田部東堅原南陽に学び、天明5年(1785)北方事情の資料を求めて仙台・塩釜に旅行しました。

また寛政5年(1793)には、水戸藩の内命を受けて武石民蔵と蝦夷地の海岸を踏査しました。そのときの記録が「北行日録」で、当時の中里周辺の状況が詳述されています。寛政10年(1798)には、下野源助の変名で近藤重蔵に従い、再び蝦夷地に渡り、国後、択捉両島を踏査しました。

 

菅江真澄

宝暦4〜文政12(1754〜1829)。姓は白井。幼名は英二、青年に達して秀雄、後年菅江真澄と称しました。三河国(愛知県)渥美郡に生まれ、天明2年(1782)に家を出て以来、生涯を旅に暮らしました。その間、多くの紀行、日記、随筆、図絵名所、民具、発掘品等、地誌、医薬関係の遺品などを残しました。

津軽には三度来訪し、最初は天明4年(1784)越後路(新潟)から秋田へ経て、同5年西浜から津軽ヘ入り青森に到達しています。二回目の来訪は天明8年(1788)で、盛岡から狩場沢を通過し、北海道へ渡るため宇鉄(東津軽郡三厩付)から船で渡道しました。寛政4年(1792)北海道からの帰途、三回目の訪問を果たしました。以後下北半島・南部方面に約3年、津軽地方に7年、あわせて10年間近く青森県内に滞在しました。

真澄がこの問に書いた日記は、相当な数だったと思われますが、現存する14冊のうち、「外浜奇勝」「錦の浜」には中里周辺の様子が詳細に記されています。

寛政11年(1799)藩の採薬御用を免ぜられたのち、享和元年(1801)津軽を去り、以降死去するまで秋田に留まりました。文政12年(1829)角館神明社の神主鈴木淡路宅で没しました。76歳。

 

平尾魯仙

文化5〜明治13(1808〜1880)。幕末のころの津軽の画家・国学者で、嘉永元年に中里神明宮に奉納された絵馬の作者。名は亮致、通称初三郎(八三郎)。別号澄川、魯縄、宏斎、雄山など。弘前紺屋町の魚商小浜屋に生まれました。

幼時から学問を好み、松田駒水に経史、工藤五鳳毛内雲林に画を学びました。また内海草坡に書法と俳譜を学び、百川学庵・今村慶寿(また渓寿とも)に師事しました。さらに鶴舎有節・今村真種らと平田派の皇学を究め、元治元年江戸の平田鉄胤の門に入りました。

自身の門下からも三上仙年・工藤仙乙はじめ、山上魯山山形岳泉など後代の画家が輩出しましたが、考古学研究家の佐藤仙之(蔀)などを育てたことでも知られます。おもな著書に、民間の奇事異聞を集めた「谷の響」「合浦奇談」をはじめ、「松前紀行」「箱館夷人談」、幽府新論」「宏斎抄誌」などがあります。

 

土岐蓑虫(蓑虫山人)

天保7〜明治33(1836〜1900)。放浪の画人として知られる蓑虫山人は、天保7年(1836)美濃国(岐阜県)安八郡結村に生まれました。本名は土岐源吾、ほかに「蓑虫仙人」「三府七十六県庵主」「六十六庵主」とも称しました。 嘉永2年(1849)14歳のときに郷里を出て以来、48年間にわたって諸国を放浪し、その足跡は全国各地に残されています。

生活用具一式を背負い、時には折りたたみ自在の寝幌に一夜を過ごす山人の旅は、九州地方を手はじめに、中国・近畿・東海・関東を経て、明治10年(1877)北奥羽地方へ及びました。山人にとって、北奥羽の風土は居心地の良いものであったらしく、放浪の旅を終える明治29年(1896)まで毎年のように来遊し、佐藤蔀・広沢安任ほか多くの地元人々と交流を結びました。

山人は、青森県をはじめとする北奥羽各地へ長期にわたって逗留する傍ら、名勝や文化財あるいは寄留先の様子などを詳細に記録しました。近代の北奥羽地方の雰囲気を如実に伝えるそれらの作品群は、民俗学研究の一級資料として評価されています。

また考古学に対してはとくに深い関心を抱き、多くの遺物を収集しつつ、明治20年(1887)には木造町亀ヶ岡遺跡の発掘調査を手がけています。この調査の模様を記す書簡は、「人類学雑誌」に掲載され、同遺跡の名を全国に広げる役割を果たしました。

諸国歴遊の旅を終えた後は、名古屋市長母寺に寄寓する傍ら、自らが収集した資料を展示する「六十六庵」建設を構想しましたが、果たせないまま明治33年(1900)鬼籍に入りました。享年65歳。