中里城跡発掘調査のあゆみ

 1 中里町の遺跡

 12月31日午後8時ちょうど――地球の誕生から現在までに過ぎ去った、気の遠くなるような時間を、いささか乱暴に1年間に縮めたとき――地球上にはじめてヒトが現われる時間です。

 ヒトの歴史は、ほかの生物にくらべると、若く短いことがわかります。しかし、それでも、この遅れてやって来た生物――ヒトは数百万年にわたって生き続けてきました。

 このヒトの生活の跡をたどるために、昔から、実にさまざまな方法が試みられていますが、その一つに考古学的な調査があります。考古学とは、かんたんにいえば、広い意味でのモノを通して、主としてヒトの歴史を研究する分野です。

 考古学が、具体的にあつかうモノには、大きくわけて2つあります。その時代の人々が、残した食器・釣針・刀などの生活用具、そしてコメ・魚などの食糧、これらをまとめて「遺物」といいます。一方、住居や倉庫、そして墓などは「遺構」とよびます。これら遺物と遺構から構成されるものが「遺跡」となります。

 中里町内には、今のところ(平成4年3月現在)19ヵ所の遺跡が確認されています。このなかで、過去、深郷田(昭和37年)・一本松(昭和37年)・大沢内(昭和47年)・平山西(平成元年)・中里城跡(昭和63年〜)の各遺跡で、発掘調査が行われています。時代的には、最も古い深郷田遺跡などが今から約5〜6千年前の縄文時代前期、最も新しい今泉母沢遺跡で2〜3百年前の江戸時代の遺物が出土しています。

 2 中里城跡の位置

 津軽半島中央部には、増川岳(714m)を頂点とする中山山脈(津軽山地)が、ほぼ南北にのびています。山脈の東西には洪積台地が連続し、多くの遺跡が位置しています。なかでも、郭や空堀などの施設が認められるものを、館跡とよび、青森県全体では300ヵ所以上が知られています。中里町では、北の方から今泉神明宮館・安倍太郎屋敷・黒崎館・笹館・赤坂館・尾別館・中里城・五林館・深郷田館などが確認されていますが、とくに中里城は、規模・構造などの点で、ほかの館跡よりもすぐれています。

 中里城跡は、T郭を中心に、旧・現神明宮境内など、複数の郭からなっており、各郭はそれぞれ空堀によってさえぎられています。くわえて、郭全体を帯郭とよばれる数m幅の平場が数段取り囲んで、守りを固めています。標高は46〜51mに達し、眼下に広がる町なみ・水田はもちろん、遠く屏風山から権現崎までをも一望におさめることができます。

 3 発掘調査のあゆみ

 昭和60年前後より、中里城跡を対象とした、地域住民のいこいの場としての公園化整備構想が、うちだされました。そしてこの機会に、積極的に中里城跡の歴史的性格を活用できるように、発掘調査が計画され、昭和63年度試掘調査が実施されました。その結果を踏まえて、平成元年度より本発掘調査が始まり、現在にいたっています。それでは、各年度の調査をふりかえってみましょう。

1).昭和63年度試掘調査

弘前大学教育学部村越潔教授を会長とする「中里城跡調査会」が組織され、T郭平場部分を対象に、1104uにわたって遺構確認調査がなされました。数くの柱跡・堀跡・竪穴跡などの遺構、あるいは縄文時代(約5〜6千年前)・平安時代(約1千年前)の土器や、室町時代(約550年前)・それ以降の陶磁器などの遺物が発見され、中里城跡のある台地が、5〜6千年前から現在にいたるまでその当時の人々に利用されていたことがわかりました。

2).平成元・2年度発掘調査

T郭平場部分を対象に調査がなされた結果、60軒近い竪穴住居からなるムラ・柵列・大溝・土塁・空堀などの遺構が発見されました。竪穴住居は全て平安時代後半のものですが、いくつも重なっていることから、さらに数時期にわけられるようです。ムラはおよそ50年以上は続いたものと考えられますが、終わり頃には、柵列・大溝などがつくられ、防ぎょが強化されます。なお、平場上の土塁・空堀については、現在のところ室町時代以降につくられたものと考えられます。

3).平成3年度発掘調査
T郭帯郭部分の調査が行われた結果、深さ1.5〜2.5mほどのV字状の空堀薬研堀)が、平場部分を取り囲んでいることがわかりました。空堀からは、土器や、鉄くず(鉄滓)がたくさん出土しており、平安時代につくられたものと考えられます。

以上3年間にわたった調査の紹介をしてきましたが、平成4年度も調査が行われ、その後、公園づくりが進められます。

 4 中里城跡のすがた

 最後にかんたんに中里城跡の歴史をまとめてみたいと思います。今から5〜6千年前――縄文時代前期、すでに中里城跡では人々が生活をしていました。そこに1年を通して住んでいたのか、あるいは食糧を得るためのキャンプをしていたのかは、わかりませんが、縄目のついた土器(縄文土器)や、石製の矢じり・皮はぎ・オノなどを使っていました。

 それから4〜5千年後の平安時代、人々は、ムラをつくりはじめました。彼らは地面に穴を掘って屋根をかける竪穴住居に住み、コメ・アワ・ヒエ・ソバなど穀物のほか、クルミ・クリなどの堅果類、サケなどの魚介類を、土器(土師器)で煮たり、焼いたりして食べていたと考えられます。また、須恵器を用い、機をおり、鉄鍛冶を行い、文字を使用していました。住居の中からは、北海道の影響のつよい土器(擦文土器)が出土していることから、北海道と交流し、タカの羽・クマの皮・サケやマスあるいはコンブなどの海産物を手にいれていたのかも知れません。人々は、まわりを柵や大溝、空掘りなどで囲んだムラに住んでいました。なぜ、このような施設が必要だったのかは、今後の課題です。

 さらにそれから4百年ほどたった室町時代になりますと、城として利用されるようになります。城主の名前などはよくわかっていませんが、中国や、日本各地でつくられた陶磁器で食事をし、茶臼でひいた抹茶を飲むといったような、ぜいたくな暮らしをしていたようです。ただ、この時期の城はあまり使われず、室町時代の中ごろには、廃棄されたと考えられます。

 このように、現在の中里城跡の地面の下、数10pには、5〜6千年間におよぶ色々な人々の生活がありました。いいえ、中里城跡だけではありません。まだ、だれにも知られずに眠っている遺跡が、中里町のあちらこちらにあります。山や畑を歩いていて、土器や矢じりを見つけたら、それらを通して、地面の下に静かによこたわっている歴史を考えてみましょう。

(齋藤 淳)