U  中里城の歴史と環境

 1 江戸時代の中里城

 中里町大字中里字亀山、弘法寺の東方に広がる山地は、古くから“館っこ”と呼ばれてきました。また向町の小泊道(国道339号線)から東に入る集落は、“館の村”と名づけられています。津軽中里駅の北方にあたるこの山地に、城(館)があるということは、江戸時代前半から知られていました。

 津軽藩は貞享4年(1687)に、田や畑、屋敷などの調査をおこない土地台帳をつくりました。中里町大字中里の台帳は、『陸奥国津軽郡田舎庄中里村御検地水帳』として市立弘前図書館に保存されています。この史料には「除地」(年貢を免除されている由緒ある土地)として、

 一古館  三町弐反三畝拾歩    弐箇所  (3.24ヘクタール)

という項が載せられています。

 これより先、検地帳を作成するため、弘前藩は領内各村の庄屋に村絵図や戸数などを書上げさせました。この絵図は、年号にちなみ『天和の絵図』『貞享の絵図』と呼ばれており、原本は青森県庁からでた火災により失われました。中里町役場に残る『貞享の絵図』(中里町指定文化財第3号)は、精度が高く信頼できる内容を伝えています。

この絵図には貞享元年(天和4年・1684)3月晦日(30日)の日付があり、紙面のほぼ中央に三重の山を描き「古城」「三拾間弐拾間」(約20アール)と記すほか、山のすそに「館ノ下」「館ノ腰」などの地名が記されています。貞享の絵図より3年後に完成した検地帳は、古城の数を2ヵ所としているほか、面積も広くなっています。現在神明宮のある山をふくめて2ヵ所としたのでしょうか。主郭の中央にある土塁から、西側と東側に分けて2ヵ所としたとも考えられます。また面積が増えたのは、山の斜面を加えたためとも想像することができます。このような事がらは、今後ほかの村の絵図や検地帳を調べて解決していかなくてはなりません。

中里城は17世紀後半には公的に知られていたわけですが、検地帳が作られてから110年ほどたった寛政10年(1789)に中里を訪れた菅江真澄は、遊覧記『邇辞貴迺波末』に、城跡から発見された「金鈑」を見たことを書き残しています。また『封内事実秘苑』は「法花寺近所之山」から「板金」が見つかり、ここが「舊き城跡」であることを記しています。ともあれ江戸時代のむらびとは中里村に城跡があり、そこが由緒ある土地であると考えていたのです。

 2 中里城の築城とその終末

 それでは中里城はいつ、誰により、どのような目的のために築かれ、どれくらいの期間使用されていたのでしょうか。残念なことに史料がないのではっきりしたことはわからないのです。今までの研究では、中世―鎌倉・室町時代に築かれた城と考え、城主には「新関又二郎」「中里半四郎」「高坂修理」などの名があげられてきましたが、いずれも推測の段階にあり、伝説的要素の強い人物も含まれています。

 また中里城について多くの記事を載せている『東日流外三郡誌』は、記事全体からみて誤りや作為と考えられる部分があるため、史料として用いるには不安があり、この記述をもとに研究を進めるのは無理だと思います。歴史学は確実な史料をもとに、論証を積み重ねていく学問です。史料の内容、記述の性質など厳しく吟味し(史料批判といいます)、確実な文献をもとに科学的な研究を続けて行かねばならないのです。信頼できる史料や記録のない中里城の場合、城を取りまく地域や周辺の城館の歴史、金石造文化財などから研究するか、考古学や歴史地理学などの成果を総合して考察するほかありません。

 ここで、中里に城が必要になった時期を、中世の津軽の歴史の動きから考えてみますと、

@鎌倉時代初期。平泉の奥州藤原氏が滅亡した時点(12世紀末期)。

A安藤(安東)氏が、十三湊に進出した時期(13世紀前期か)。

B安藤氏のうちわもめが“津軽大乱”に発展したころ(13世紀頃)から、南北両朝が、対立した時期(14世紀)。

C南部義政の攻撃により、安藤盛季が十三湊を退去した時点(15世紀前期)。

D北畠・大浦・大光寺など南部系三大名が津軽で力をもち始めたころ(15世紀後期)。

などの時期が考えられます。なおこれらのうちいずれかの時期に中里城が築かれたとすれば、次に十三湊を攻める側が築いたのか、守る側が築いたのかが問題になってきます。十三湊にある勢力を頭において考えると以上のようになりますが、このような考え方とは別に、宮野沢川や中里川流域の開発にともない、他の城とは関係なく中里城が築かれたとみることもできます。

 それでは文献の面から中里城終末の時期を確定してみましょう。天文年間(1532〜1555)に浪岡の北畠氏が編んだといわれる『津軽郡中名字』には、津軽の地名が数多く記されていますが、中里周辺の地名は見当りません。このことから、16世紀前期の中里の地には、大きな土豪の勢力はなかったと考えることができます。前の章で述べた検地帳に古城が「除地」として扱われているのは、江戸時代に入る前に城は使用されなくなっており、昔城だったという伝承だけが残されていたのではないでしょうか。

 次に問題になるのは、中里城の地域が使用されていた時代を中世に限定してよいかという問題です。中里城の発掘では、中世に使用された陶磁器のほか、土師器や須恵器それに擦文土器が出土したのです。またふいごの羽口や鉄滓が多くでています。これらの年代をどのように考えるか、場合によっては古代史の分野にまでさかのぼる可能性が出てきました。擦文土器が使用された時代が古代であるとすれば、城であったかどうかは別として、その時代まで研究範囲は広がります。擦文土器の年代が安藤氏の活動の時代とどのように結びつくのか関心を呼ぶところです。なお、中里城域一帯で古代に鉄の精錬が行なわれ、擦文土器が使用されていたとしても、文献史料の面からこれを裏付けるのは現状では困難としかいえません。

 3 中里城の構造と環境

 ここで中里城の構造について観察したいと思います。城域は中里の集落がある亀山台地の後背部にあり、大きく分けると発掘が行なわれた主郭とその西に続く高地、南側に伸びる尾根で結ばれている神明宮一帯の平地などに分けることができます。

 主郭の上部の平場とそれを取りまく帯郭は山城の遺構を美しい姿で残しており、今後も保存に力を入れてほしいと思わずにいられません。平場には南北に続く土塁状の遺構があり、発掘の結果その東側に堀があることがわかりました。また土塁と堀を境にして西側が一段高く、中世の遺物もここから多く発見され、城の中心部だったと考えることができます。またこの郭の西端から、西北方向には十三湊一帯を、南方には岩木山を背景にした岩木川下流域一帯を見渡すことができ、この展望が中里城のもつ役割を示すのではないかと感じるのです。平場の周囲には、南側の急な崖の部分をのぞき、1〜3段の帯郭が巡らされています。東側、斎場側の斜面には3段の帯郭があり、一番下の段は目立ちませんが、中段の帯郭は、南の尾根を基点に主郭を取りまくように北から西南部に達しています。また上段の帯郭はゆるやかに上り、主郭にある堀の北側におよんでいます。

 主郭の西には、帯郭をはさんで小さな郭が二つ続きます。老松のある場所は、江戸時代の末まで神明宮があった所で、今も庚申塔や甲子塔が祭られています。昭和23年(1948)ころ、経塚が発見されたのもこのあたりと考えられ、村びとの信仰の場でした。古くから城を守る聖域だったのかも知れません。老松の外側を注意してみると、この郭のまわりにも帯郭が巡らされていることがわかります。なおこの郭の下、弘法寺の裏手にある七面様の境内を出丸と考える説もあります。主郭の南側、神明宮の境内から記念碑のある地域、さらに北に続く平場も郭の一つと推測されます。この郭の周囲のうち、社殿の後背部は急な崖になっています。また南西部から東部にかけて数段の帯郭が残されており、神明宮の参道も上部は帯郭を利用していると考えられます。この郭は主郭にくらべ全体的に荒々しい感じがします。後世たびたび人の手が加えられためでしょうか、城を築く際に急いで作ったという事情があったのでしょうか。今後の調査が期待されるところです。

 このほか主郭の北西には“座頭ころがし”と呼ばれる急な斜面があり、城の要害となっています。また主郭の西側の帯郭から南下に、竪堀とも考えられる地形が認められます。主郭から南に伸びる尾根との接点には、土塁とみられる遺構が認められることも記しておきましょう。

 山城にとって水の確保は重大なことでした。中里城の場合、水のでるところは、神明宮社殿後背部の斜面下、主郭の西側から真勝寺に下りる山道の傍らなどのほか、東側の山すそにも2ヵ所ほど確認できます。なお今回の発掘の際、主郭の上部からは井戸のあとを見つけることができませんでした。水の補給がこの城の弱点だったと思われます。また鉄の精錬がおこなわれたとすれば、作業をした人々の苦労は大きかったと考えられます。

 ここで、中里城を取りまく環境を考えてみたいと思います。城の北には中里川があり、その流れは内潟につづき、十三潟にそそいでいました。城の南には宮野沢川があり、江戸時代前期には旧十三潟湿地帯が入り込んでいました。この湿地帯は亀山台地の西側に広がっていたのです。『貞享の絵図』はこの湿地帯を「福甲田潟」とよんでいます。この地域 に新田開発が進められたのは17世紀後半のことで、その際宮川・八幡・大沢内など金木新田の村々が誕生したのです。

 ともあれ2本の川と湿地帯が、中里城の南・西・北三方を守る役割をしていたのです。なお宮野沢川の南岸に深郷田館、中里川の北方に尾別館があったことも注目する必要があると思います。

 中里城は、東方の中山山脈からつづく長い尾根の先端にあります。また中里小学校や旧中里中学校のある丘陵とは「根小ヤノ沢」で区切られています。この沢は津軽鉄道の敷設や津軽中里駅裏手の宅地化、仁兵衛堤の埋立てで沢という感じがなくなっていますが、中里城の東方を守る堀の役割をはたしていたのです。「根小ヤノ沢」という名称は『貞享の絵図』に記されており、中里城の集落がある台地を区切る沢という意味があったと思われます。根小屋は中世の城郭に関連する用語で、山城の下にある武士たちの居住地をさすのです。

 4 周辺の城館と中里城

 次に中里城の周辺の城館について考えてみたいと思います。「T 中里城跡発掘調査のあゆみ」には、今泉神明宮館ほか八つの城館の名を紹介しています。その中で中里城のようにある程度の高さをもつ城館は尾別館、深郷田館、安倍太郎屋敷(今泉)などです。安倍太郎屋敷は今泉川の北岸にあり、館主が城を捨てたとき黄金造りの冑(かぶと)を埋めたと伝えられる井戸や石塔もあったといわれますが、中里城にくらべると規模は劣ります。

尾別館と深郷田館は旧十三潟湿地帯に突出する尾根の先端部に堀を設けており、上部からは岩木川下流域の雄大な景観を展望することができますが、中里城のように幅広い郭はありません。なお二つの郭は検地帳に、

 (尾別館)  一古館 弐拾五間拾五間 壱反弐畝拾五歩  壱箇所

 (深郷田館) 一古館 弐拾六間拾八間 壱反五畝拾八歩  壱箇所

と記されています。中里城をはさみ旧十三潟湿地帯に臨む二つの館が、中里城と同じように除地の扱いを受けているのは単なる偶然なのでしょうか。ところで深郷田館は昭和37年(1962)の秋に一部ですが発掘されており、大型の羽口と鉄滓、土師器や須恵器をともなう竪穴住居址が発見されています。もう一方の尾別館の周辺にも鉄滓は多く散布しており、中里城と共通する点があるようです。また尾別館の主には建武元年(1334)の『津軽降人交名帳』に記されている「乙辺地小三郎光季」をあてる説が有力です。なおこの人物の前に「新関又二郎」の名があるところから、同人を中里城主とする考え方が生れています。さらに広い視野から中里城に似た城館をあげてみましょう。独立した郭で周囲に帯郭をもち、上部に堀があるという条件をもつ館の例には、黒石市の高館、五所川原市の長者森などが頭に浮かびます。またより雄大な城としては市浦村相内の唐川城をあげることができます。

 唐川城は安藤氏の山城と考えられ、山の下には福島城(市浦村相内)や古館(市浦村磯松)などがあり、中世の五輪塔や宝篋印塔も分布しています。スケールは小さくなりますが、中里城下にも五輪塔や宝篋印塔があり、旧十三潟を囲む城館として関連性を考える材料となるのです。

 5 中里城下の石造文化財

 ここで亀山台地の先端部に残る五林神社・石塔群についてふれておきたいと思います。五林神社の社殿に入ると正面に五輪塔が祭られています。高さ120.0p、幅46.5p、奥行き45.0pあり(『青森県中世金石造文化財』による)、磨滅してはいますが、地・水・火・風・空の各部が残り、梵字が刻まれていることもわかります。この塔には源義経の家来大導寺力の妻オリを祭ったという伝説がありますが、造立の年代をそこまでさかのぼらせるのは無理かと思います。また宝篋印塔も御神体となっていますが、完全なものはありません。 『陸奥古碑集』によると、江戸時代に中里を通った岡本青鵞は、五輪塔が1基、宝篋印塔が4基、五林村にあることを書き記しています。これらの石塔が建てられた年代については、宝篋印塔の方が鎌倉時代から室町時代、五輪塔は室町時代前期までに造立されたとする見方があります。

 五林神社の傍らにある五林館は、いま述べた五輪塔と結びつく名称と考えられ、館主は高坂修理といわれています。しかし菅江真澄は『外浜奇勝』の中で「五倫といふやかたあり、そこは寺のあともしられてたが五倫塔ならんありて、むかし栄えたるもの語ありとぞ」と記しています。また岡本青鵞は館のあることにふれ、誰の館かわからないと述べていま す。高坂修理という人物は、長慶天皇の潜行と結びついていますから、信頼するのは困難だと思います。五林館の年代は、石塔群の時代から一応中世と考えられていますが、発掘調査が行なわれていませんのではっきりしたことはわかりません。館の形は楕円形をしており、堀や土塁が残されています。五林館の年代は別として、五輪塔や宝篋印塔は、中世の中里城と何等かの関係をもっていたと推測されるのです。なお五林神社の石塔群は中里町指定文化財第2号に指定され、保護の手が加えられています。また中里城の東方“喜丈上げ”から昭和の初め宝篋印塔が出土したことを『中里町誌』は記しています。このほか今泉や薄市にも古塔があったといわれます。なお中里城の周辺からは古鏡や懸仏、鰐口などが発見されており、中里城の時代と結びつくのではないかと推測されるのです。

 6 歴史地理的にみた中里城

 中里城を考えるとき、古代、中世の両時点とも旧十三潟湿地帯の存在や、岩木川の旧流をより広い視野でみつめる必要があると思います。

 津軽平野の内陸部と十三湊・日本海を結ぶ岩木川水運が、中里城と直接結びつくとは考えられませんが、城が高い所にありますから、川筋を監視するという役割をになっていたと思います。川の利用という点では、中里城の南を流れる宮野沢川や中里川の川筋から、旧内潟(昭和30年代の干拓事業で大部分消滅した)を通り、十三湊までの舟便が考えられましょう。古代か中世かは別として、城域での鉄の精錬や移出に利用されていたのかも知れません。擦文土器の文化圏との交流は、当然この水路を利用したと考えられます。安藤氏の十三湊進出にともない、川筋の重要性は増大したと思われます。十三湊に入った中世陶磁器や五林神社の石塔群もこのルートをたどり、受け入れられたのかも知れません。

宝篋印塔の形式は関東式と関西式に分けられますが、五林神社の塔は関西式であり、日本海海運で運ばれた文化とみることができます。このようにみていくと中里の地は、十三湊にあった勢力と深い関係をもっていたことになります。前にも述べましたが、亀山台地の周辺には“福甲田潟”があり、宮野沢川沿いに入りこんでいましたから、深郷田―中里―尾別間の道筋は潟端を通るもののほか、山手を通る別の道筋があったと考えることができます。この道は喜良市(金木町)から飯詰(五所川原市)を通って藤崎に達するか、浪岡から東方の山麓を通って碇ヶ関に達し、鹿角(秋田県)を経て平泉や関東地方と結ばれていたのです。相内の山王坊に残されていた宝篋印塔の中には、関東式の様式がみられ、人びとの交流があったことを推測させます。中世の供養塔の一つである板碑の流入や、板碑に刻まれている文字から時宗の信仰が入っていたことがわかるのですが、それらのなかにはこのルートをたどったものがあるのかも知れません。なお中里では板碑は発見されていません。

中里川の上流部には“喜丈上げ”や“寺屋敷”“大導寺屋敷”など中世の遺跡と考えられる場所があることも前の章でふれましたが、中里城からこれらの地点を通る道筋をさらに東に進むと袴腰岳に至り、外ヶ浜(陸奥湾岸)の様子を知ることができたと思います。中里城域には南北につづく古道が通っており、東方から来る山道と一緒になります。出土品を中心に交通網を考えると、小さな中里城ですが、大きな日本文化の輪の中で育まれていたことがわかります。

 7 むすび

 今までいろいろな角度から中里城を考えてきました。史料の面から解明できない事柄が、考古学や歴史地理学、石造文化財などの調査を通しておぼろげながらわかってきました。また問題点も浮かび上がってきたのです。中世の城とばかり考えてきた中里城ですが、擦文土器の出土により、城域はより古い時代にさかのぼって使用されていた可能性があることや、その文化圏との関係など研究の範囲は広がりました。また鉄の精錬に関連して幅広い地域との交流も考えねばならなくなりました。また鉄滓の出る遺跡は中里町内に多く分布しており、今後この方面の研究を進める必要がでてきました。

 中世の中里城に限定するならば、五輪塔や宝篋印塔の存在や城跡からの出土品の状況により14〜15世紀ころに使用され、大浦(津軽)為信の津軽統一より前に姿を消し伝説化していたと考えることができます。

 この仮説が許されるとすれば、中里城は十三湊にあった勢力と深い関係があったと考えられるのです。実在したかどうか疑問がもたれていますが十三藤原氏、中世津軽の雄安藤氏とどのように結びついていたのでしょうか。

 安藤氏が藤崎から十三湊に進出したのは13世紀前期のことと考えられ、『十三湊新城記』は正和年中(1312〜1317)に新城を築いたとしています。新しい城をどこにあてるかには異論もありますが、十三潟に臨む福島城をあてる考え方が有力です。北条氏の所領を管理するとともに、『蝦夷管領』として北方の支配をゆだねられて強い力をもつようになった安藤氏は、14世紀の前期に一族の争いをおこし鎌倉幕府滅亡の遠因をつくりました。室町時代の安藤氏は十三湊を拠点として日本海で活動を続けました。『十三往来』は「夷船京船群集」したと記しています。京船は京都への通路である若狭や丹後の港から来た船なのでしょうか。夷船は北方に向かう船とも考えられますし、安藤氏が大陸と交渉をもっていたという説がでていますから、もっと遠方に行く船だったのかも知れません。

 『後鑑』という本には、応永30年(1423)に安藤陸奥守が幕府に馬・鳥・銭・昆布などを献上し、室町将軍家足利氏と親密な関係を保とうとしていたことが知られます。安藤氏の全盛もこのころが頂点だったとも考えらます。また莫大な献上品は弱りかけた安藤氏の力を維持するための努力だったのかも知れません。

 ここで安藤氏と中里城を結ぶ事柄をもう一度考えておきたいと思います。城跡から発見された擦文土器の分布圏と、安藤氏の勢力圏が似ているところから、安藤氏との接点をどのように考えるか幾つかの説があります。五輪塔や宝篋印塔は十三から中山山脈の西麓に多く分布し、藤崎町にある唐糸の五輪塔に続いています。安藤氏の二大拠点と、その間に点在することになります。このように考えると十三湊と藤崎を結ぶルートの中継地の一つが中里城だったと考えられます。

 津軽平野の歴史に話をもどしましょう。14世紀以来南部氏は津軽に進出し勢力を伸ばしていました。安藤盛季は娘を南部義政の奥方とし、姻戚関係により平和を保とうとしましたが、南部氏はこれを裏切り安藤氏を攻めたのです。『満済准后日記』はこれを永享4年(1432)のこととし、抗争が長く続いていたことをにおわせています。また『湊文書』はこのできごとを嘉吉3年(1443)のこととしています。おそらく安藤氏の津軽回復の作戦が続けられたものと思います。なお中里城は安藤氏側の城だったと考えられますが、南部氏側の城であるとすれば、このころ造られたことになります。また十三湊が南部氏の手に移ってからも、しばらくは使い続けたと考えられます。南部氏は後に津軽の支配を浪岡の北畠氏にゆだねますが、『津軽郡中名字』に中里周辺の地名がないことから、北畠氏の時代には廃城になっていたとみることもできるのです。

 中里城について様々な面から考えてきましたが、今まで述べてきたことは、仮説の上に立った仮説です。今後の諸調査や新史料の発見により、新しい考え方が生れてくると思います。なお中里城跡は平成4年4月中里町文化財第1号に指定され、保護の手が加えられることになりました。中里城の歴史が解明される日が近いことを願って本稿を終わりたいと思います。

                                (佐藤 仁)

 【文献解説】

1)封内事実秘苑・『工藤家記』ともいいます。文政2年(1819)に成立した弘前藩の記録、工藤源左衛門行一が編纂しました。

2)津軽郡中名字・天文年間(1532−55)に浪岡の北畠氏が編んだといわれます。津軽地方の地名を多く載せているほか、16世紀中頃の津軽地方の支配状況などが記されています。

3)津軽降人交名注進状・「つがるこうにんきょうみょうちゅうしんじょう」。遠野南部文書(東京都北多摩郡多摩霊園東郷寺蔵)に含まれています。鎌倉幕府滅亡の余波は津軽にも及び戦乱が続きます。この史料は建武政府側に降った人びとの名を報告したものであり、当時の津軽地方の動静を知る手掛かりとなっています。

4)陸奥古碑集・中村良之進の板碑調査記録。昭和2年(1927)に出版されました。

5)十三湊新城記・文保年間(1317−19)の成立といわれ、十三湊の新城が正和年中(1312−17)に安倍貞季により築かれたことを記しています。

6)十三往来・建武年間(1334−38)に山王坊阿吽寺(市浦村相内にあったといわれます)の僧弘智の著と伝えられ、『津軽一統志』に収められています。安藤氏の福島城や十三湊の繁栄ぶりが記されています。

7)後鑑・「のちかがみ」と読み、室町幕府関係の史実を年代順に記しています。江戸幕府の事業で嘉永6年(1853)に成立しました。

8)満済准后日記・「まんさいじゅごうにっき」。醍醐寺の座主満済の日記。満済は足利将軍義満・義持・義教の信任厚く“黒衣の宰相”といわれた人物です。内容は詳細で正確。15世紀前期の政治や社会を知る手掛かりになっています。

9)湊家文書・八戸藩の家老を勤めた湊家に伝わる文書。湊家は安藤氏の子孫でこの文書には安藤氏関係の書状が含まれています。

10)新羅之記録・「しんらのきろく」。初期の松前家の事蹟を記した記録で、17世紀半ばの成立と見られます。