V  発掘調査からみた中里城跡

 発掘調査の成果と中里城跡の歴史的内容はすでに述べていますから、この項目では一般の人達が疑問に感じることや、たびたび質問を受けることについてお話ししましょう。

質問1 中里城跡は、中世の城と言われていますが本当でしょうか。またどのような城なのでしょうか。

 よく「城(しろ)」というと、弘前城・大阪城などの天守閣があり、石垣や水堀に囲まれたものだけを「城」と考えている人がいます。「城」という文字には「土」を「盛」るという意味もありますから、たしかに土塁や堀や柵で囲まれたものを「城」と言えないこともありませんが、「シロ」という発音で思い浮かべるのは「苗代(なわしろ)」という場所です。「苗」を育てる場所としての「シロ」は、防ぎょ的な意味よりも「苗を育てるために区画した場所」としての意味が強く、日常生活のなかで理解できる「城」の一例です。一般的に天守閣や石垣のある城は、織田信長の造った安土城の後で造られるようになったもので、それ以前(16世紀後半以前)は、自然地形を利用し堀や土塁を基本とした城が多いのです。特に津軽地域では、中世の城を「館(たて)」と言って、現在でも「○○館」と呼んでいる所がたくさんあります。

 中里城も津軽地方で言われる「館」の一つですが、発掘調査によっていろいろなことがわかってきました。最も重要なことは、平安時代とされる10〜11世紀頃からすでに「館」としての機能と考えられる堀や柵列が発見されたことです。ですから中里城を語るとき、単純に中世の城と言うのではなく、古代・中世の「シロ」と考えるのが「中里城」の性格を示しています。

 また、中里城のような山の上にある城は津軽地方では比較的少なく、青森市にある「尻八館」とともにちょっと異質な城と考えた方がよいでしょう。まだ、発掘調査の途中なので十分に説明はできないのですが、10〜11世紀の遺物と15世紀の遺物が多くみられますから、それぞれの時期に山の上で生活をしなければならない社会的状況があったため、当時の人々の生活の痕跡が残った「城」・「館」(遺跡)と考えることができます。

質問2 中里城跡から発掘された資料からどのようなことが考えられますか。

 まず最初に遺構という面からみてみましょう。

 遺構として検出されたものとして、掘立柱の跡(実際に建物跡として確認されていないための一時的使い方)、竪穴建物跡(竪穴住居跡も含む)、堀跡(堀・空堀・大溝・壕などの表現も一括して含める)、柵列跡、土塁、土坑(地面を掘り下げた遺構のなかで機能がよくわからないもの)、溝跡などがあります。

 これらの遺構の中で、15世紀頃に多くみられるものは掘立柱の跡と若干の竪穴建物跡です。特に中世城館と言われる遺跡からは、掘立柱建物跡と竪穴建物跡が一緒に検出される事例が多いことから、建物によって居住する人々の相違があると考えられています。また、10〜11世紀の段階では一般に言う竪穴住居跡が遺構の大部分を占め、これらの居住する区画を取り囲む状況で、深さ1.5m以上の空堀と上端における柵列跡が発見され、防ぎょ的集落と考える人もいます。さらに江戸時代以降においても空堀や土塁を造ったようで、その場合は城館としての意味よりも土地の境界の目印みたいなものと考えられます。

 このような遺構の中では、竪穴住居跡(10〜11世紀)が特徴的です。地面を掘り込んだ中に柱を建て、屋根をかけ、かまどを造り、日常生活と生産にかかわる作業を行っていたと考えられますが、何度も同じような場所に竪穴住居跡を造るものですから、重複することによって古い建物跡が壊されていることが多く見うけられます。

 次に遺物の面から見て見ましょう。

 土の中から出てきた遺物として、主に食生活に関係する土器・陶磁器の類、道具として使用されることが多い金属製品・石製品・土製品、そして経済行為の証でもある銭貨があります。特に15世紀の年代を決める資料になった陶磁器については、当時東アジア一帯に流通した中国製陶磁器と、日本列島中に流通した日本製陶磁器の二種類を確認できました。

 中国製陶磁器の中には青磁と白磁、日本製陶磁器の中には瀬戸窯製品・越前窯製品・珠洲窯製品があり、器形としては碗・皿・小坏・瓶・盤・壷・擂鉢などがあります。これは、日本列島における中世の遺跡、特に城館跡からは一般的に出土するものであり、特に中里城跡だけではありません。中里城跡に近接する市浦村の十三湊からはいまだに表採できるほど、多数の陶磁器が持ち込まれており、中里城跡出土資料と年代や器種がほぼ類似した状況となっています。中里城跡の陶磁器は個体数としてみた場合、多くみても50個ぐらいしか発見されなかったことから、短期間の居住であったと考えることができ、15世紀における中里城の性格が浮かび上がります。

 陶磁器に比較して10〜11世紀の土器の量は多量です。土師器と言われる素焼きの土器と、須恵器と言われる窯で焼き上げた土器は、竪穴住居跡から出土する例が多く、坏と呼ばれる碗形のものと甕と呼ばれる煮炊きのものが圧倒的で、須恵器の場合は貯蔵用の甕・壷の出土例が多いようです。  さらに、現在考古学研究者の間で問題となっている擦文土器と言われる北海道系の土師器が少例出土しています。なぜ問題になっているかと言いますと、擦文土器の使用者をアイヌ民族の先祖とする見方がある一方で、擦文土器を使用しなくなる時期について11世紀から15世紀の間のいずれかという決定的な証拠が発見されていない現状によるものです。中里城跡から出土した擦文土器は、10世紀後半の土師器・須恵器を伴う遺構よりは新しい遺構に伴って出土し、どちらかというと15世紀と考えた陶磁器と伴う状況で出土したため、もしかしたら擦文土器は15世紀頃まで使用されていた可能性があることを考えさせられました。もっとも擦文土器の使用者がアイヌ民族であったという確実な証拠も現在まで発見されていませんので、中里城跡から出土した擦文土器は北海道と津軽地域に人の交流が存在した程度に考えておく方がよいと思います。

 以上の土器・陶磁器のほかに、金属器・石製品・土製品が出土しています。例えば鉄製品の中には刀子と言われるナイフや釘そして矢の先に付ける鏃と呼ばれる例、使用目的は明らかでありませんが銅製の品があり、石製品の中で多くみられる砥石は鉄製品と一緒に出土することが多いようです。また、茶臼と言われる抹茶を作る道具は、喫茶の風習をもった人々が住んでいた事を推測させますし、土で作られた錘は漁撈を生業とする人々が網を持っていた証拠にもなります。

質問3 中里城跡から出土したものでもっとも興味深いものは何ですか。

 そうですね。大変悩むところですが、しいて挙げるとすれば鉄の精錬に関係した遺物でしょう。これは、鉄滓と呼ばれる鉄器生産の過程で出るカスと炉に風を送って高温を維持するためのふいごの羽口が多量に出土していることからもうなずけます。

 鉄滓を分析した岩手県立博物館の赤沼英男氏によると、

 「金属学的解析の結果いずれも精錬滓であることが確認された。平安中〜後期には、中里城における住居跡あるいはその周辺において、製錬によって得られた銑塊を脱炭し鋼を造る、いわゆる鋼製造が行われていたことを指摘できる。」と述べられ、直接に鉄製品を造る前の精錬作業によってできた鉄滓とされています。このことは、中里城跡の中に住んでいた集団の主要な生業が、鉄生産コンビナートの中間段階に対応していたことを示し、「鉄」が流通経済の中で重要な位置を占めはじめたことを推測させる状況になったと言えます。

 その後、中里城跡のみならず津軽地域における10世紀以降の遺跡は、「鉄」「海産物」「毛皮」などといった天然資源の供給を第一にすえた商業交易の体制に組み込まれるようになり、中世社会の中で「北の視点」を有した歴史現象が表れるようになります。

質問4 中里城跡は将来どのようになるのでしょうか。

 中里城跡は発掘調査をする以前と以後で、その見方が変化してきました。当初中里町では「史跡公園」として中世の城館を復元し町民の憩いの場にしようと考えていましたが、発掘調査によると中世の遺物もありましたがほとんどは10〜11世紀の古代の資料が主体であることもわかってきました。特に、古代において空堀を巡らしてその中に集落を有し、集落の人々が鉄生産に関連した生活をしていたことは、津軽地域・北日本地域の中で大変重要な歴史的成果と言えます。そして中世の段階、15世紀においても少なからず遺物が出土したことは、津軽の中世史の中で光彩をはなつ「津軽安藤氏」の一支館としての性格も想定され、「中世中里城」の位置も貴重なものになってきました。

 このように、発掘調査を実施したために理解できるようになった事実は、今まで推測から語られていた地域の歴史に科学的な視点を与え、冷静に地域史を勉強できる資料を提供したと思います。今後、これらの資料を使って「史跡公園」化を計画するにしても、町民一人一人が中里城跡や中里町の歴史を学習しなければ、単に観光化された公園になってしまいますから、町民自身が足を運べる公園としてよみがえらせたいものです。

(工藤 清泰)