T 中里城跡環境整備の基本理念

 中里城跡は江戸時代に「古城」といわれ、また古くから町民に「お城っこ」「館っこ」とも呼ばれて人々の心の拠り所となり、町の歴史的財産という意識のもとに親しまれて来た。町の中心地に近く、自然が色濃く残る当城跡の存在は町民の誇りでもあったろう。

 古く遡った中世の時代には、十三湊と津軽の内陸部を結ぶ交通上の拠点として、当城の果した役割はきわめて大きかったであろう。しかしこのように重要な地理的位置を占めながら、当城跡はその記録を書くために歴史に関する位置付けは小さく、伝承もまた少ないのである。想像をよりたくましくすれば、当城跡から直線で12qほど北西に位置する十三湊を拠点とする安藤氏や、浪岡に拠した北畠氏などとの間に、同盟または主従関係の存否等も、当城跡がこれらの両拠点を結ぶ線上に位置するだけに推理の興味は尽きないのである。

 このような歴史的背景を考慮に加え、中里町では町の発展を目指す将来構想として、「豊かでうるおいのある文化の町」づくりをキャッチフレーズに、その構想の重要な施策として、当城跡を町民の憩いの場とする公園化計画を打ち出した。

 しかし当城跡は、前述のごとく中里町の重要な歴史的財産であり、現代に生きるわれわれは、この貴重な文化遺産を後世に伝えるべき責務があり、したがって公園化を目指すとしても、悔を千載に残さぬような整備を行う必要がある。町当局はこの計画を実施するに当たって当城跡の発掘調査を考え、町教育委員会がその調査の担当となって、昭和63年には試掘調査を、翌平成元年からは発掘調査を継続的に行い、すでに公有地化されているT郭を中心に、周縁の帯郭および空堀なども、地権者の理解と協力を得て進められ、その成果は、町教育委員会から年次報告の型で公刊されている。

 中里城跡の公園化事業はこのような経緯で進められ、町は平成4年6月に至って「中里城跡整備構想策定委員会」を発足させ、数年にわたる調査の成果を基に、将来へ向かっての整備構想について、その基本的な理念等の策定を諮問した。委員会では7回にのぼる会議と、北海道函館志苔館跡・江差町・上ノ国町勝山館跡等をはじめ、八戸市根城跡などの整備状況を視察し、また町民との対話集会(「みんなで中里城址を語ろう」)を開催して、城跡の将来に対する意見・提案を聴取した。

 これら一連の審議等に基づいて、中里城跡整備構想策定委員会は次のような基本理念を背景に、当城跡の環境整備を図るよう答申する。

 @史跡公園化を図る

 昭和63年度の試掘調査及び翌平成元年度からの発掘調査の結果、主として調査の行われたT郭平場での所見によると、当初、想定していた中世の遺構・遺物は少なく、遺構としては、15世紀(室町時代前半期)頃の掘立柱建物柱穴と若干の竪穴が発見され、遺物も若干の中国製陶磁器(青磁・白磁・青白磁)と国産の陶磁器(瀬戸・越前・珠洲)などであり、調査開始期における当初の予想を裏切って、検出された遺構・遺物の大半は、10世紀後半から11世紀代に至る、平安時代中ごろの竪穴住居跡と同時代の土師器を主体とする遺物等であった。また同郭の辺縁には、空堀・柵列などの存在が明らかになり、このT郭は古代(平安時代)における、防御的な色彩の強い環濠的な集落であったように考えられる。したがって当城跡の整備を実施するに際しては、古代に主体を置く史跡公園が望ましいであろう。なおT郭の東半部を巡る帯郭は、古代の遺構を後代に再利用した点も考えられ、古代と中世の併立を考慮する必要がある。

 A城跡一帯の公有化を図る

 当城跡において公有化されている地域は、T郭の平場とU郭へ向う馬背状の狭い地域であり、整備の際にも、T郭の斜面ならびに帯郭一帯を切り離すことは出来ないであろう。したがって当該地域はもとより、U郭(神明宮)の一帯と、T郭の西に位置するV郭を含めて、公有化を希望する。

 B発掘調査の継続実施を図る

 昭和63年度より、継続して行われてきたT郭の平場を中心とする発掘調査は、当城跡の整備に関する基礎的な資料を得ることが目的であった。しかしながら公有化の進められていないU郭とその周縁や、T郭と弘法寺の間のV郭およびそれに付随する空堀等は、現在なお未調査である。

 史跡公園への整備前に発掘調査を実施し、地下に眠る遺構・遺物の存在を確認する必要があり、また計画の進展によっては、発掘調査と整備を併行しながら実施することも考慮しなければならない。

 C自然景観の重視と検討

 さきに提言の古代を主体とする史跡公園化の実施に当たり、発掘調査によって検出された遺構の復元も考慮されるであろう。ただしその遺構復元に主力を注ぐとしても、周辺の自然景観を失うことは厳に慎まなければならない。自然景観と復元整備の両立併存に配慮し、可能な限り先進の史跡公園を参考のため視察して、その知見の上で最良の計画を立案すべきであろう。

 なお当城跡が存する一帯は、冬季に十三湖や津軽平野を越えて吹く地吹雪地帯であり、先進地からの知見を得るにしても、共通する自然条件の地域を選ぶ必要がある。

 D遺構及び建物跡の復元

 T郭の発掘調査によって、空堀・柵列・井戸跡・竪穴建物跡などが発見されたが、これらの遺構の大半は、前述したごとく古代に属するものであり、当時の構造物の上屋は材質が木材ならびに茅などであった。したがってこれらは燃焼しやすい材質である。構造物の復元に際しては、特に防火面の配慮が必要であろう。

 また復元の場合には、建築史学者の見解を十分に取り入れる必要がある。

 空堀・井戸跡の復元に当たっては、見学者に対する事故防止ならびにその対策を考えるべきであろう。出来得れば入園者の事故防止と雪害による遺構破損などを防ぐため、遺構の露出展示は極力避けるべきである。ただし当城跡は史跡公園を目指しており、そのため学習の場としての目的も一面では有しており、遺構等については、各種の手法によりその性格を明示する必要がある。

 E資料館の設置

 当城跡の環境整備に関する町民との対話集会において、要望の最も強かった事項は資料館の設置であった。

 当町には埋蔵文化財をはじめとする各種の文化財が眠っており、それらを収集し、保存管理する施設は町民の熱望であろう。祖先から受け継がれ、今日におけるわれわれの生活向上と深い関係を有する文化財を、次代へと送り伝えていかなければならぬ責務を、またわれわれは背負っている。城跡の整備とともに、資料館の設置を切望したい。

 F城跡の環境整備について

 当城跡の整備に際し、若干の要望を加えておきたい。

 (1)はCに先述した「自然景観の重視と検討」に関連するが、公園への整備を進めるに当り、自然景観と地下の遺構を破壊せぬ範囲で、当史跡公園にツツジのような根が浅く張り、花の鑑賞出来る樹木を植栽し、町民の憩いの場となることを考えてはいかがであろうか。そのためには、ツツジの名所として名高い大鰐町の茶臼山公園が参考になろう。当該園は、昭和42年に大鰐中学校の生徒が入学記念に植樹したことに端を発し、毎年植樹されて、今日では1万本に達しているといわれ、毎年5月下旬からの“ツツジまつり”には町民はもとより、弘前や青森市などからも園遊者が訪れ賑わっている。

 中里町も中学生の植樹か、町民の1株寄付によって、城跡に対する愛着も生ずるのではないだろうか。

 あるいは弘前城の桜(染井吉野)に対抗して、開花の若干遅れる八重桜を植樹するのも一案であろうか。海を距てた北海道の松前城における八重桜はすばらしく、道内一円からも花見に訪れている。

 (2)は当城跡の一角に展望台を設置し、津軽平野を通しての岩木山や、小泊岬(権現崎)を一望出来る施設とする。この展望台は当然のことながら、自然景観との調和を前提とすることは言うまでもない。また設置する展望台の位置を基点に、県内・国内・世界の主要な都市などを明示すれば、学習的な効果も大きいであろう。

 中里町は、観光資源の眠っている町であり、それを呼び起こし発掘することによって、発展の可能性は無限に広がるであろう。そのためには町民の精神的な支えと、能動的な活動が是非とも必要である。

                                  (村 越  潔)