津軽半島は、北が津軽海峡、西が日本海、東が陸奥湾と三方が海に面していて、南西方には岩木山が位置している。半島の脊梁部には、北方から、増川岳(714m)・四ツ滝山(670m)・木無岳(587m)・玉清水山(479m)・袴腰岳(628m)・赤倉岳(559m)・大倉岳(677m)・十二岳・源八森(353m)・魔ノ岳(474m)・馬ノ神山(549m)・梵珠山(468m)等々が連なり、ほぼ南北に縦走して津軽山地(中山山脈ともいう)を成している。これらの山稜は、およそ十二岳〜源八森間の稜線部(海抜高度約 200m)に源流をもつ金木川支流の高橋川及び母沢を境として二分される。北側は高度500〜700mの山稜からなり、北北西―南南東方向へ延びる袴腰岳ドームを形成している。南側は高度300〜500mのやや低い山稜からなり、ほぼ南北方向の馬ノ神山ドームを形成している。
また、日本海に面した鰺ヶ沢町弁天崎から十三湖までは七里長浜と呼ばれる単調な海岸線が続いている。この海岸線に平行して「屏風山」と呼ばれる台地が東西約4q、南北約30qと帯状に発達し、津軽平野を海岸線から隔離している。この屏風山は海岸段丘とこれを被覆する砂丘から構成され、屏風山中には平滝沼・冷水沼等の沼沢地及び湿地が点在している。
東方の津軽山地と西方の屏風山との間には、低平な津軽平野が東西5〜20q、南北約60qの広がりをもって発達し、豊沃な穀倉地帯となっている。海津 1976 によると、津軽平野は南から順に、扇状地帯、自然堤防帯、三角州帯に区分され、最北端に潟湖である十三湖が位置している。平野南部の藤崎以南では岩木川・浅瀬石川・平川などによる扇状地が形成され、開析された扇状地が2〜3段に発達している。平野中央部から北部にかけては鳥趾状三角州が形成され、掌状の自然堤防とそれらに挟まれて分布する後背湿地が良好に発達している。
一方、五所川原以北ではきわめて平坦な低湿地であって、自然堤防が岩木川と金木川の現河道沿いに局部的に認められるのみである。約6,000年前の後氷期最大海進(縄文海進)時の汀線は五所川原北部と木造を結ぶ線まで達したといわれ、広大な潟湖が形成された。その後、海退により潟湖は埋め立てられ、現在の平野北端に位置する十三湖及び田光沼がその名残りとなっている(海津 1976 )。なお、平野内における標高5m以下の等高線をみると、人為的な放水路が存在するものの基本的には屏風山寄りに流路をもつ山田川流域を中心に森田村付近を頂部として北方に向かって低湿地帯が展開しているのが把握できる。
ところで、五所川原以北における水系をみると、主要河川としては平野中央部を蛇行しながら北流する岩木川がある。岩木川は、白神山地に源をもつ平川、十和田カルデラ外輪山に源をもつ浅瀬石川の各河川と平野南部の藤崎付近において合流している。岩木川以西の水系としては、屏風山の東縁部を岩木川とほぼ平行に北流する山田川がある。この川は岩木山に源をもち、途中田光沼を経由して十三湖に注いでいる。ほかに妙堂川・中川・古田川・出精川などがあって、この他圃場整備による放水路も存在する。これらの河川は、一部を除いて、田光沼が合流地点となっていて。一方、岩木川以東においては、南から、松野木川・飯詰川・小田川・金木川・鳥谷川・宮野沢川・中里川・尾別川・薄市川・今泉川等があって、いずれも津軽山地に源をもっている。このうち、金木川以南の河川にあってはすべて黒石南方の丘陵地に源をもつ十川に合流し、そして田光沼とほぼ同緯度にて岩木川に合流している。中里町周辺にあっては北側の薄市川・今泉川を除いて、河川改修されているが、鳥谷川にすべて合流したのち北流して十三湖へ注いでいる。なお、上高根溜池・大沢内溜池・藤枝溜池などは谷地形の平野東端部を堰止めたもので、上水道排水及び潅漑用水として利用されている。
次に、津軽平野北部の地形発達をみると、上述したとおり、五所川原以北では低平な湿地帯が広く展開している。この地域の地表面は、標高5m未満で、勾配が 0.1〜0.2/1000 程度のきわめて平坦な低湿地であり、田光沼のような水域も残っている。稲垣村再賀付近では鳥趾状三角洲の末端部の様相を呈していることが空中写真で確認できるといわれている。自然堤防の存在は岩木川本流沿い及び金木川流域に小規模に認められるのみで、岩木川流域にあってはその幅が 500〜1500m程である。
平野東縁部には津軽山地を刻む谷の全面に南北に走る細長い微高地が認められる。金木町藤枝、中里町大沢内・高根などの集落をのせていて、長さ1000〜1500m、幅 50〜100m程度の規模で、海抜高度が約4m程度である。一方、北側の田光沼北西の車力村牛潟・栗山付近、十三湖北岸には海抜高度3〜5mの沖積段丘が発達し、水田として利用されている。
以上から、海津 1976 は津軽平野北部の地形発達史について次のように考えている。約18,000年前の最終氷期(ヴュルム氷期)の最大海面低下期以降、海面は急激に上昇し、約6,000年前の縄文時代前期頃には海面高度が現在よりも若干高くなったとされている。この縄文海進により津軽平野北部の五所川原北部及び木造付近まで屏風山寄りに中心をもつ内湾(あるいは潟湖)が拡大したものと考えられる。木造町菰槌での自然貝層(地表下約 1.5mの砂層中)中のシジミ貝の放射性炭素(14C)による年代測定の結果、6,650±115y.B.P.が得られている。なお、五所川原以南の地域では氾濫原堆積物が堆積していた。
海進にともなって拡大した内湾の北部においては、その後の海面安定化により、縁辺部に沖積段丘が形成されたほか、旧汀線を示す砂州(砂嘴)が分布している。そして、河川による運搬物資の堆積が卓越しはじめると次第に堆積していき、内湾に面して形成されていた三角州が次第に拡大して三角州性の低湿地が形成されていった。
ところで、平野中央部の自然堤防帯に位置する板柳町の幡龍橋及び鶴田町の鶴寿橋において岩木川河床に埋没林の一部が露出している。埋没樹の14C年代測定値は2,240±90y.B.P.(海津 1974)、 2,480±85y.B.P.(多田・大矢 1975 )で、縄文時代晩期後半から弥生時代初期と推定される。埋没樹の生育していた河谷は縄文海進以後、縄文時代晩期以前に形成され、谷底は縄文時代晩期後半から弥生時代初期にかけて樹木の生育が安定した状態になっていたものと考えられる。一方、三角洲性の低湿地においては、後背湿地などに泥炭層が形成された。木造町の亀ヶ岡遺跡ではその泥炭層の年代測定値が2,900±85y.B.P.が得られ、前述の埋没樹の年代測定値とほぼ一致している。泥炭層も比較的安定した環境のもとで形成されたものと推定できる。
そして、2,000 年前頃以降、平野北部の三角州性低地帯では現岩木川沿いに自然堤防が延長し、後背湿地には粘土及び泥炭質の堆積物が堆積し、潟湖が次第に埋積していった。
次に、平野縁辺部に発達する段丘群について、藤井 1966 及び中川 1972 は次のように分類している。岩木川東方の河岸段丘は金木段丘(中位段丘に相当し、藤井 1966 の第2段丘に対比)及び喜良市段丘(低位段丘に相当し、藤井 1966 の第3段丘に対比)の2段が確認できる。また、十三湖北岸の相内付近では高位段丘としての相内段丘が分布している(中川 1972 )。このうち、中位段丘の金木段丘は屏風山地域の山田野段丘に対比される。
相内段丘は丘陵地外縁部に断片的に分布し、段丘面は開析され原面を失っていることが多い。金木段丘は、屏風山一帯及び津軽山地西縁部に発達し、海抜高度15〜20mのきわめて平坦な段丘面である。そして、喜良市段丘は、金木及び喜良市付近において金木段丘を刻む谷中に扇状地状に発達している。ちょうど、北側の北北西―南南東性の袴腰岳ドームに関係する山稜と南北性の馬の神山ドームに関係する山稜との接合部に位置している(藤井 1966 )。この段丘面はかなり急傾斜していて、津軽平野下の埋没段丘(海面下10〜15m)として知られている高根段丘(小貫・三位ら 1963 )に連続する可能性がある。
ところで、筆者は、本地域の河岸段丘を段丘上位面と段丘下位面の2段に区分した。筆者 1989 は、中里城跡周辺に分布する河岸段丘を上位段丘・中位段丘・下位段丘の3段に区分し、上位段丘をさらにA面及びB面に細分した。しかし、平野東縁部における段丘発達を調査した結果、本論との対比は次のとおりである。段丘上位面が上位段丘に、段丘下位面が中位段丘及び下位段丘に相当する。ただ、段丘上位面は構成層である火山灰層の堆積状況から判断して細分化される可能性がある。段丘下位面に関しては構成層には変化がなく段丘面の発達状況によって細分される。
段丘上位面は袴腰岳ドームを形成する山稜の西縁部に位置している。段丘面の海抜高度は40〜70mあり、断片的な分布を示すのみで、原面をほとんど消失し丘陵化している。中川 1972 の相内段丘に相当するものと考えられる。段丘下位面は平野部に平行して帯状に約1qの幅でもって分布している。段丘面は侵食谷の発達で開析はされているものの、海抜高度が10〜25mときわめて平坦である。筆者 1989 で指摘しているように、高度18〜20m付近を境として細分される。ちょうど屏風山周辺に分布する山田野段丘T面及びU面に相当する。山田野段丘T面相当面は高度20〜25mで、開析度が多少認められ、やや傾斜のある面なのに対して、同U面相当面は高度10〜18mで、開析度が小さくきわめて平坦な面である。本段丘は宮野沢川や中里川流域の右岸にも小規模に分布していて、平野部に発達する本段丘面よりもやや急な傾斜面となっている。中川 1972 の金木段丘に相当するものと考える。なお、喜良市段丘に相当する段丘面は本地域において確認していない。
段丘面前面及び尾別川・中里川・宮野沢川など各小谷の平野部への出口には、南北に走る細長い微高地(自然堤防)が認められる。海抜高度が約4m程で、各小谷を閉塞する形で分布している。なお、五林地区では段丘下位面上に自然堤防の構成層と思われる堆積物(砂礫層及び未淘汰の砂層)が堆積していて小丘地状を呈している。小谷内の等高線をみると、自然堤防を境として平野部から急激に高度を増していて、小谷内は比高約5〜6mの上位沖積面(海抜高度約8〜10m)をなしている。
中里城跡は、中里川と宮野沢川の両河川に挟まれた南北幅約1qの段丘上位面上に立地している。本城跡は、コンピュータグラフィックによる鳥瞰図(筆者 1991 )に示したように、旧神明宮跡地(V郭)から調査区域(T郭)を経て現神明宮地(U郭)にかけて“コ”字状の配置を成しているものと思われる。開析されたやせ尾根を呈する段丘上位面に立地してはいるが、その稜線部はきわめて平坦である。また、“コ”字状の平坦面の東半部には階段状を呈する cutting面が認められるように、周囲は深くて急峻な段丘崖になっている。T郭にあたる調査区域は海抜高度48〜51m、南北幅約50m、東西幅約1qの楕円状の平坦面である。発掘調査で確認されたことであるが、この平坦面は後世の開墾等による削平もあるが、本城築城に関連する削平化も認められるようだ。
津軽半島の地質については、藤井 1966・1981 に詳しく記載されている。これに基づいて記述していく。
津軽半島は、新第三紀の緑色凝灰岩類及び堆積岩類が広く分布し、東北地方の、いわゆるグリーンタフ地域に属する。それらの地層の堆積状況をみると、半島脊梁部を南北に走る津軽断層を境としてその東部と西部では中新世(2370〜 530万年前)後期から鮮新世(530〜170万年前)にかけての岩相及び層厚が著しく異なっている。すなわち、東部は沈降帯、西部は隆起帯の構造帯を示し、津軽断層はそれぞれの構造帯の生成及び発展過程と密接に関係している。なお、この津軽断層は津軽海峡の三厩湾から青森市西部の大釈迦に抜ける延長約50qに及ぶ大断層で、70〜80°西方に傾斜した衝上性逆断層である。
東部沈降帯は津軽断層に並行する褶曲群及び断層群で特徴づけられる。津軽断層に接近した所では急傾斜してもめているところもあるが、全体的には東側へ緩く傾斜している。堆積する地層は下位から、中新世後期の不動滝層、鮮新世の白滝橋層・六枚橋川層・沢内沢層及び立山層からなっている。津軽断層の生成に伴いながらその東側に生じた大沈降帯は、主に浅海性の白滝橋層、六枚橋川層及び沢内沢層の堆積によって埋積された。一方、西部隆起帯はドーム構造で特徴づけられ、北部の袴腰岳ドーム及び南部の馬ノ神山ドームの2ドームを有し、この構造に伴う褶曲構造がわずかに発達している。全体として、ドームの西翼部はゆるやかにうねりながら西方へ緩傾斜するのに対し、津軽断層に接近した東縁部は東方に急傾斜し、時に逆転している。堆積する地層は下位から、中新世の長根層・馬ノ神山層・源八森層・不動滝層、鮮新世の味噌ヶ沢層及び立山層からなっている。
馬ノ神山層及び源八森層の堆積時期には、津軽半島全般にわたり沈降運動が進み、同時に大規模な火山活動が発生した。源八森層の堆積後期ないし直後に袴腰岳・馬ノ神山両ドームの隆起運動が開始し、金木川異常堆積層の発達が認められる。袴腰岳・馬ノ神山両ドームを含む、西部地域での横圧力による逆断層を形成しながらの隆起運動に対して、東部地域では大沈降帯.が形成された。味噌ヶ沢層は、不動滝層を不整合に覆い、西部堆積盆の西方への移動に伴う海退相を示し、立山層は西部堆積盆の埋積に寄与している。
次に、遺跡周辺の段丘構成層である火山灰層序について記述したい。
金木町大東ヶ丘において厚さ約3mの降下相の粘土質火山灰を確認した。この火山灰層には3枚のクラックの発達した暗色帯がみられ、これをもとに火山灰A・B・Cの3層に区分した。火山灰Aは、厚さ20〜50pの黄褐色粘土質火山灰である。深郷田地区においては最下部に細粒浮石の混入した、ソフトな感じの灰褐色火山灰(5〜10p)が堆積している。全般的に本火山灰最上部には再堆積相の暗褐色火山灰(10〜20p)が堆積し、砂質あるいは礫混じりの状態を呈することもある。沖積地以外はすべて覆っている。火山灰Bは、厚さ20〜80pの緻密な粘土質火山灰で灰褐色〜茶褐色を呈する。最上部には波状の凹凸面をもつ暗色帯(10〜15p)が位置し、上位の火山灰Aとの境界部になっている。段丘上位面を被覆する。火山灰Cは、厚さ100〜200pの赤褐色粘土質火山灰で、格子状の割れ目が発達していることが特徴的である。上位の火山灰Bとの境界部にはほぼ水平な暗色帯(約10p)が認められる。段丘上位面の比較的高度の高い方(大東ヶ丘では標高約70m)に堆積している。
最後に段丘構成層について述べたい。遺跡周辺には2段の河岸段丘が発達していることは述べた。段丘上位面の構成層は、基盤である味噌ヶ沢層(葉理の発達した砂層)を不整合に覆う凝灰質粘土及び砂礫、火山灰A〜Cから成っている。段丘の細分化はできなかったものの、粘土と砂礫の互層、火山灰A及び火山灰Bを構成層とする段丘面も存在する可能性がある。段丘下位面では、平野縁辺部の深郷田では最下部に砂礫層をもち、細〜中粒砂と粘土の互層を主体とし、最上部に火山灰Aが堆積している。宮野沢川流域では、砂礫と粘土の互層を主とし、火山灰Aを最上部にのせている。
(山口 義伸)
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