3 中里城跡付近の人文環境

 イ 交通

[道路網]

 中里町は昭和30年(1955)に旧中里町・武田村・内潟村が合併して成立した。中里城がある大字中里字亀山地区は中里町の中央にあり、役場・営林署などが設けられ、商店街も形成されている。中里字亀山を中心とする集落は江戸時代からこの地域の中心地としての役割を果たしてきたが、昭和に入り急速に発展したのは五所川原からの津軽鉄道が敷設され、津軽中里駅が終点となったことと無関係ではない。昭和5年(1930)に開通したこの鉄道により、中里地区の近代化は進み、小泊方面への中継点として村勢は発展し、昭和16年(1941)には町制を施行した。なお旧3ヵ町村の内武田地区は津軽藩の新田開発により成立した金木新田組の村からなっている。また内潟村も新田開発と関係が深いが、この方は十三潟(湖)東岸の集落が下ノ切道(小泊道)を軸に結びついて形成された村である。

 地形面を考察すると、中里町の東方には中山山脈が走り、西方には岩木川が流れて北方の十三潟(湖)にそそいでいる。行政区画をみると岩木川の西には稲垣村・車力村があり、十三潟の湖岸線は市浦村と分ちあっている。また中山山脈の東側には南から蓬田村・蟹田町が続く。一方中里町の南側は金木町であり、江戸時代にはここに金木組・金木新田組の役所が設けられ、以後現在に至るまで両町は密接な関係を保っている。

 町内の主要道路をみるとその主軸は五所川原から金木町内を通って当町に入り市浦村・小泊村へ向かう国道339号線である。この道には南から大沢内・八幡・深郷田・中里・宮川・尾別・上高根・下高根・薄市・今泉などの集落が続く。もっとも現在の国道はバイパスとなっておおむね集落の西側を通過しているが、歴史的には浪岡から飯詰、金木を経由して中里にはいる中世以来の下ノ切道(小泊道)を母体として整備された道である。快適な道路となって北上する339号線は小泊から先竜飛崎を経て三厩本村に達し、青森湾岸を北上してきた国道280号線と結ばれている。もっとも小泊から竜飛崎までは道幅が狭く、大型車の通行は困難である。

 次に岩木川西岸との交通は、下流部の下高根から車力村を結ぶ県道に“津軽大橋”があって市浦村十三方面を短絡するほか、豊島集落に近い“神田橋”は車力本村・稲垣・五所川原・木造方面、往時の木造(広須)新田の村々に通じている。中里から神田橋までの県道は、八幡から豊岡・富野・豊島などの集落を通過する。また岩木川自然堤防上には芦野・長泥・下長泥などの集落があり、対岸とは渡し舟で連絡していた。しかし昭和30年代の十三湖干拓事業の進行や津軽大橋の架設により渡船は廃止されてしまった。ちなみに神田橋は明治42年(1909)に江戸時代から続いた渡し場の跡に架けられたもので、それまで岩木川対岸地区との交通は不便だった。行政区画も江戸時代には金木新田組と木造(広須)新田組、明治以後は北津軽郡と西津軽郡になっていた。

 一方中山山脈を越える東津軽郡青森湾岸との往来には金木町喜良市から山を越えて内真部川を下り青森市奥内に出る主要地方道があるが冬季間は閉鎖される。一般的には五所川原市を通って青森市に向かうか、今泉から中山山脈を越えて蟹田町に抜ける道筋が利用されている。

 なお最近国道339号と岩木川筋の県道の中間に“米:マイロード”と名付けられた広域農道が開通し、五所川原方面への所要時間が短縮された。

 

[バス]

 これらの道路上を通る路線バスは弘南バス(本社弘前市)が独占している。中里町を通過する路線は次の通りである。

(1)五所川原―中里―小泊線

 国道339号線の旧道(小泊道)上の集落をつなぐが一部分新道上を走る。運転形態は津軽鉄道津軽中里駅を境に変化する。津軽鉄道と並走する五所川原―中里間は1日片道4本でいずれも小泊直通便である。津軽鉄道との競合をさけ鉄道とバスの共存を図っている。運転回数がが少ないのは、この路線がもともと津軽鉄道の経営だったことに起因する。一方中里以北は1日片道9本(途中の今泉までほかに片道のみ1本)運転されており、津軽鉄道の時刻に合わせて運行している。なお昭和35年頃まで冬期間長期にわたって運休することがあったが、除雪体制が整った今日ではその不安はほとんどなくなった。

(2)金木―豊島―長富―田茂木線

 金木町神原から当町に入り、岩木川沿いに豊島・富野を通り長泥まで片道6本(内3本は田茂木止め。休日減便あり)運転している。この路線の富野から中里までもバスが運転されていたが、乗客不足により廃止された。

(3)金木―車力―富萢―中里高校線

 当町の高根にある中里高校への通学生のために、金木からの下車力線のバスを延長したもので、運行は中里高校の授業に合わせている。また富萢―中里高校間は休日には減便されており、この路線を利用して十三方面に行くのは現実的ではない。

 

[タクシー]

 タクシー事業は中里町内に2社あり13台(内1台はジャンボタクシー)で営業している。このほか国道339号線上には金木・市浦(相内)・小泊などに業者がある。過疎の進行と自家用車の普及によりバスの運転回数が減少しているので、ジャンボタクシーは意外に利用されている。

 

[鉄道]

 津軽半島一周を夢みて敷設された津軽鉄道車線は、五所川原から津軽飯詰・金木を通り津軽中里駅に達している。津軽五所川原―津軽中里間20.7キロメートルを約40分で結び、途中に10ヵ所の駅(停留所を含む)を設けている。最近では運転本数が減少気味であるが、それでも津軽中里発着は片道20本に及んでいる。同社の出資者の多くは沿線の人々(法人)で、開通以来幾多の苦難に突き当たったが、その都度懸命の努力で切り抜け現在に至っている。同社は鉄道自体を観光資源にみたて、駅や停留所にそれぞれ特色ある花を植えて乗客を楽しませるとともに、夏の風鈴列車、秋には鈴虫列車を運転しており、冬のストーブ列車には遠方から乗りに来る人が多い。鉄道趣味雑誌ほか広くマスコミを通じて全国に知られている鉄道である。また地吹雪の激しい冬期間にも確実に運転され、ストライキのないことも含めて地元利用者の信頼度は高い。なお同社は鉄道のほか五所川原市内でタクシー、マイクロバスの経営や観光サービス業も行っている。中里城はこの鉄道線路の突き当たる所にある。中里城の整備にはこの鉄道の存在を忘れることができない。津軽鉄道に乗り継ぐ人、この鉄道に乗って来る人すべてを中里城に誘致したいものである。

 中里町には明治時代末に津軽森林鉄道が開通した。青森市沖館から蟹田・今泉を通って金木町喜良市に至っていた。現在森林鉄道は残っていないが、この鉄道に並行する今泉―大平間の道路を進むと、JR蟹田駅、津軽今別駅(津軽線津軽二股駅と隣接する)に達し北海道方面や、三厩方面に行くことができる。また最寄りのJR東日本の駅は五能線五所川原駅である。同線の下り列車は弘前駅を終点としている。上り列車は東能代に直行するものは少なく、多くは鰺ヶ沢・深浦止まりで乗換えが必要になっている。五能線には季節的に観光列車“ノスタルジックビュウ号”が2往復運転され、“奥津軽”の魅力を倍加している。五所川原駅が奥津軽の表玄関と考えられているが、前述の津軽海峡線の両駅の存在も忘れてはならない。

 

[空港]

 青森空港からは東京・大阪・名古屋・札幌などの空路が開かれているが、中里町から空港までの公的交通手段は不便であり、今後解決すべき課題と思われる。

 

 ロ 観光

 近年“奥津軽”の名称で五所川原から西北新田地帯・十三湖・小泊方面への観光客を誘致している。中里町もその中に含まれるが、町内の観光地を二・三あげると次のようになる。

(1)袴腰岳

  中山山脈の高所標高627メートルの袴腰岳は、津軽中里駅からおよそ13キロメートルの行程である。登山道には雑木林のほかヒバの樹海が広がり森林浴には最適である。

 登山道は宮野沢経由と不動の滝経由の2ルートあり片道4時間、山頂は陸奥湾から下北半島、岩木山、権現崎など360°の展望が可能である。

(2)不動の滝

  中山山脈の山ひだに囲まれた滝で、『新撰陸奥国誌』は「本村(中里)より東一里二十丁 袴腰山中にあり高6間幅5間」と紹介している。江戸時代菅江真澄が「麻芋の糸をさとみだしたらんかとおちかかりたり」と流れを紹介し、「いとおもしろの滝」と評している。津軽中里駅から6キロメートル、袴腰山登山の際立寄ることもできる。

(3)今泉唐崎

  今泉は十三湖に面した集落で、湖畔から七平坂にかけて観光施設が点在する。その中心となるのは「吉田松陰遊賞の碑」である。吉田松陰が十三湖畔を通ったのは嘉永5年(185 2)3月4日のこと、この日は晴、前夜の宿泊地中里をたち「過二十三潟辺一、越二小山一、山 臨レ潟、対ニ岩城山一。真好風景也」と『東北遊日記』は記している。現在の記念碑は3代目のもので以前は七平坂の登り口にあったが、3代目の碑を建立する際現地点に移し環境を整備した。

  松陰の碑の付近には唐崎の台地があり、「賽の河原」や「源氏山又市」の碑がある。源氏 山又市(1864〜1914)は今泉出身の関取で明治20年代に活躍、関脇まで昇った人物である。一方中里町は七平坂を上った地点に十三湖展望台を設けており、岩木山や新田地帯の風景を楽しむことができる。

(4)般若寺(下の猿賀様)

  富野にある天台宗の寺院で、金木新田の開発が進められた元禄11年(1698)に開か れ三新田の祈願所になった。般若寺は金木新田開発の精神的寄所であったが、文政10年( 1827)には猿賀神宮寺(猿賀神社・南津軽郡尾上町)の分霊を安置して、“下の猿賀様”として地域民の信仰を集めるようになった。

(5)津軽三十三観音

  津軽三十三観音の巡礼は江戸時代から続く庶民の信仰である。三十三の巡礼は久渡寺(弘前市)に始まり普門院(山観)で終わる。新田開発が進むとともに霊場は津軽全域に広がった。中里町の観音霊場は第十三番川倉芦野堂(金木町)から、

  第14番 弘誓寺観音堂 千手観音 尾別字胡桃谷198

  第15番 薄市観音堂  勢至観音  薄市字玉清水86

  第16番 今泉観音堂  千手観音  今泉字唐崎103

 の順で参拝し第17番相内春日内観音(市浦村)に向かう。

 現在では個人で巡るよりマイクロバスを利用する参詣客が多い。

 以上町内の観光地をあげてみたが、いずれも小つぶでそれ自体では観光客を引きつける魅力を欠いている。今後それぞれを整備しつつ関連付けるように思い切った投資が必要である。ただ今泉地区は十三・小泊観光ルート上の休憩の場として育ちつつあり、これからの努力次第では十三湖東部の観光拠点として発展する要素を持っている。

 今後観光的要素を含む施設として考えられるものに町の歴史資料館、十三湖開拓記念館などがある。両者は比較的早い時点で実現する可能性があるが、一度見学したらそれで終わりという施設にせず、二度・三度と見学者が訪れるような内容と規模を持ったものにしたいものである。一方スポーツ施設には見るべきものがあり、これを母体に人を集める工夫ができるのではなかろうか。

 以上のように見てきた時、津軽中里駅の北に立地する中里城の整備は重要なことであり、町のシンボルとなる新しい観光の目玉建設に全力をあげる必要がある。

 中里町の周辺の町村の観光地を歴史的面から見ると、各町村は

  金木町  芦野公園と桜、斜陽館と太宰……近・現代

  木造町  亀ヶ岡文化…………………………原始

  市浦村  安藤氏と十三湊……………………中世

などに重点を置いている。中里城はこれらの観光地と結ぶことを念頭に整備を進め“奥津軽”観光の拠点として堪えられるような施設にしたいものである。

                                  (佐藤 仁)