発掘調査によって検出された数多くの遺構のなかで、建築物と見做されるものは、竪穴式建物跡である。かなりの数の竪穴建物跡が重複しながら検出されており、調査整理の段階で6期の時期に分けられている。
T期とされる時期は、10世紀半ばとされており、その長軸はほとんどすべてにおいて北西から南西へという方向に取られている。竪穴の形態はほぼ正方形を示し、土師器を出土するが、竃跡や周溝跡については明確ではない。
U期とされているのは10世紀後半の前葉とみられ、土師器が共伴しており、長軸方向はT期と同様であり、竪穴はやはり正方形を示し、竃跡と周溝跡とを有し、主柱穴は竪穴内部の中心寄りに検出されている。T期とU期とではそれほどの差異は認められず、T期とされたもので不明な部分がU期として見えているのかもしれない。平場の北側では、その縁によって切られた形の竪穴建物跡がいくつか検出されており、後世にここが切り落とされたことが判明し、当時は平場がもっと広かったことや中央部がもっと高かったこと、更に、北側で低くなっていたことなどが推察された。
V期は10世紀後半の後葉に相当するものとされている。竪穴の形は正方形であるが軸方向が北北西から南南東へ向くようになって変化し、竃跡と周溝跡とをもち、主柱穴はこの周溝内部で検出されている。遺物は土師器とともに須恵器も共伴している。
W期とされる時期は10世紀末が比定されている。検出された竪穴建物跡は、軸方向を再び北西から南西へと変え、形は正方形を示し、竃跡が無くなって囲炉裏が用いられているが、周溝跡は備えており、主柱穴はこの周溝内に求められる。共伴する遺物は土師器と須恵器の他に擦文土器が加わってくる。これらの竪穴建物跡では、前期よりはやや小規模となり、ここでも竪穴の一部が切り落された形で検出されており、北側が切り落されたのは10世紀末より以降であることが判明している。
X期は11世紀前半とされている。この時期から竪穴の形が長方形となり、軸方向が南から北へ向くようになる。竃跡は見られずに囲炉裏であり、周溝跡は備わっていて主柱穴はそのなかに検出されている。そしてまたこの時期から須恵器が伴わなくなり、遺物は土師器と擦文土器とで構成されている。
Y期は11世紀半ばと見られている。ほぼX期と同様であり、遺物は土師器と擦文土器であり、軸方向が南から北であり、竪穴が長方形を示し、囲炉裏が用いられていたものであるが、この時期では周溝跡が無くなり、主柱穴は壁際にあるものと竪穴内の中心部寄りに検出されたものとが混在している。その他に、大きな井戸跡があり、柵列跡や空堀跡もこの時期のものとして検出されている。南北を向く竪穴の軸方向は、中央部の土塁跡や空堀跡とも同方向であることから、土塁跡の下から2/3は堀跡と一体のものと見られるが、南端の柵列跡を切っていることからすると、新しいものとなるかもしれない。
先の「中里城跡整備構想策定委員会」では、この11世紀半ばとされるY期の検出遺構を中心に据えて整備を進めるという方針が確認されている。検出遺構の種類の多いことやその規模などからして妥当なことと認められる。
ここでは、これまでに述べた6時期にわたる変遷のなかで、とくに竪穴建物跡を取り上げて、その構造や変遷の過程を捉えてみたい。
竪穴建物跡の規模については、全般的にみると、T期から次第に大きくなり、V期からW期で最大値を示すようになり、X期、Y期はやや小規模になる傾向が見られる。
T期では検出された部分で僅かに1.1mに2.3mというものや、一辺が5.0mほどのものが報告されている。U期になると3.0mに4.0mという小型のものもあるなかに、一辺で4.0mから6.0mを測るものがある。さらにV期になると、5.8mに6.2mというものや、一辺が6.5mの方形のものなど、大型化が進む様子が窺われる。この傾向はW期までは見られるものの、X期以降になると3.1に2.3という小型のものが検出されており、Y期に向けてさらにやや小型化が進むようである。
このような竪穴建物跡の規模の変遷は、集落全体の規模とも関連するものと見られ、10世紀半ばから、次第に大きくなった集落が10世紀末まで発達を続けたものが、11世紀を迎える段階で一時の断絶を窺わせるような様相を示しており、11世紀半ばという時期には、これまでのものとは違って、空堀を掘り柵列を廻し、竪穴建物には周溝跡が見られない、といった様相を示してくるという大きな変化を見せている。この時期に、中里城跡の古代集落に何らかの大きな動きがあったかもしれない。
竪穴建物跡の構造について見ると、その主柱穴が竪穴の内部にあるものと周溝内にあるものとに分けられる。さらにY期には、周溝跡は無いものの、主柱穴が壁際にあるものや竪穴内部の中心寄りにあるものとが報告されている。
竪穴内部の中心寄りに主柱穴を有するものの構造形式を考えると、縄文時代以来の伏屋式の形式が想定される。U期とされる05号竪穴建物跡では腰板と見られるものが検出されていることは、この形で主柱穴が並ぶものは、竃跡が造られてはいるものの、伏屋式である可能性の高いことを示すものであろう。U期だけではなくT期のものについても、伏屋の形式であるとすることができそうである。またY期とされるものに、主柱穴が竪穴内部の中心寄りに認められるものが報告されているが、時期が下っても、主柱穴の配置からは、やはり伏屋式のものと見るべきであろう。これまでに青森県で検出された古代の竪穴建物跡は、そのほとんどのものがこの構造形式で復元考察がなされている。
V期からW、X期のものでは、その主柱穴が周溝跡の内部に検出されるという共通点を見ることができる。それも周溝内部の四隅とその間中に一本づつという形で検出されるものが多い。すなわち正面が2間で側面も2間となる形式である。これらの時期のものは、規模が大きなものが多いのであるが、壁立式の構造形式を想定せざるを得ないであろう。V期のものには竃跡が検出されており、W、X期のものには竃跡は無いのであるが、建物跡の構造形式とは関わりの無い変化と見られる。Y期とされるもののなかには、周溝は無いものの、その主柱穴が竪穴内部の中心寄りに検出されるものと、壁際で検出されているものとがある。竪穴内部に柱穴を有するものは、前述のように伏屋式の構造と見られるが、壁際に柱穴が検出されるものの構造を想定すると伏屋式は考えにくく、やはり壁立式となるようである。
このように見ると、ここ中里城跡で検出された竪穴建物群の構造形式は、T、U期では伏屋式のものが想定されるのに対して、V、W、X期では壁立式を想定することが妥当であると見られるようである。そしてY期になると、伏屋式と壁立式とが混在したかのような様相を呈している。
竪穴建物跡の規模の変化や構造形式の変遷には、先に見たような遺物の出土状況や竪穴の形態や軸方向の相違、竃跡の有無や周溝跡の有無などによる時期の区切りとは別の変遷過程が予想されるのである。それらについては、検出された70棟にのぼるすべての竪穴建物跡のデータが揃った段階で、詳細な検討を試みたいと考えている。
(高島 成侑)
中里城跡発掘調査は、T郭平場、T―U郭間(以上史跡指定地)、並びに第1・2帯郭を対象として実施された。以下検出遺構について、各時期毎に概略を述べる。
@縄文時代(前期;約5〜6千年前)
◎T郭平場〜土坑跡及び溝状ピット跡各1基が検出されている。
◎T―U郭間〜溝状ピット跡1基が検出されている。
当該期の遺構について、土坑跡からは、ある程度まとまった円筒下層式土器が出土したものの、溝状ピット跡からは遺物は出土せず、性格等詳細は不明である。
A平安時代(10世紀半ば〜11世紀代;6時期程度に細分可能)
◎T郭平場〜竪穴建物跡76軒、土坑跡40基、溝状遺構42条、井戸跡1基、柵列跡13条、大溝跡1条が検出された。
◎T―U郭間〜竪穴住居跡1軒、溝状遺構1条が検出された。
◎第1帯郭〜空堀跡が1条検出された。
◎第2帯郭〜空堀跡が1条検出された。
当該期の遺構について、竪穴建物跡を主体とする集落は、T時期(15〜20年間程度か?) 10軒前後から構成される。11世紀代に入ってからは、集落を囲繞する柵列並びに空堀が 構築される。以下、各遺構の特色を述べる;
・竪穴建物跡〜前期のものは方形を呈し、周溝・カマドを有するものが多い。後期になるとほぼ南北に長軸をとる矩形のものが支配的となり、周溝・カマドの認められないものも現れるようになる。
・土坑跡〜竪穴建物跡に付属するものと、単独に存在するものがあるが、何れの場合も矩形・方形・不正形のものが認められる。貯蔵庫的な性格で捉えられるもの以外は、用途・機能とも不明のものが多い。
・溝状遺構〜規模・平面・断面等に若干の差異があるものの、用途・機能を推定できるものは少ない。
・柵列跡〜何れもT郭平場南辺沿いに存在する溝状の遺構である。底面にピットを有するものと存在しないものがある。
・井戸跡〜後期に掘削されたものと考えられ、径約4mを測る。
・空堀跡〜第1帯郭検出のものは断面V字形で、平場を半ば囲繞する。第2帯郭検出のものは断面U字形を呈し、尾根を切断している。
B室町時代(15世紀前半)
◎T郭平場〜ピット多数
明確に掘立柱建物を形成するものは認められない。
C近世以降
◎T郭平場〜土塁並びに空堀1条が検出された。
空堀より、近世陶磁器が出土した以外は、当遺構の用途・機能等不明である。
(齋藤 淳)