発掘調査によって検出された多数の竪穴建物跡のなかで、11世紀半ばとされた第Y期を想定した整備がなされることとなった。前述のように、この時期は検出された遺構も竪穴建物跡だけではなく、柵列跡や空堀跡や井戸跡なども検出されており、遺構の種類も多く、中里城跡に展開された古代集落跡をいささかでも再現しながら整備しようとするには、極めて好条件を備えている時期といえる。
この時期のものとして検出された竪穴建物跡は6棟ほどを数えるが、やや規模が大きくなり、すべて長方形となり、軸方向は北から南へという向きを示しているという共通点を見ることができる。これらをどのような形で整備すると、ここに検出された竪穴建物跡の姿を一般の来訪者に理解していただくことができるのか、ということが問われている。
検出された遺構を表示する手法としては、これまでにもさまざまなものが試みられている。例えば、平面的な大きさだけを示すようにしたものや、それと同時に柱穴跡や周溝跡の位置を示したものがあり、平面表示などとよばれている。これに対して立体表示と呼ばれるものがあるが、これにも数種あって、柱や梁桁などの主要構造材のみを表示する手法もあり、実物大模型とでもいえるように、すべてを復元する方法も見出される。これら立体表示については、発掘調査で検出された建物跡についての上部構造や細部意匠まで明らかにされている訳ではなく、その復元手法も確立されてはいない。しかし、一般の来訪者にとってみると、単なる平面表示ではその建物跡のイメージが捉え難いということが指摘され、最近では立体表示という手法が注目されている。
中里城跡にあった古代集落跡の整備について、検出された竪穴建物跡の復元手法を考えるとやはり立体表示をするということが求められよう。そしてその方法としては、実物大模型という考え方に基づきながらも、細部についての情報が極めて少ないことなどを勘案して、検出状況に合わせて竪穴を掘り、柱を立て、梁や桁を組んで屋根を架ける、という程度の復元を提案したい。「中里城跡公園」は「町民の広場」という観点からその整備が待たれているところでもある。その公園内施設の一つとして、「休憩所」あるいは「四阿」ということで整備されたものが、実は、発掘調査で検出された竪穴建物跡の復元されたものであった、ということはいかがであろうか。
ほぼ全面が調査されたT郭においては、その東半部分で、Y期に相当するものとしての空堀跡や柵列跡や井戸跡が明瞭に検出されているのに対して、竪穴建物跡ではこのY期に該当するものが明瞭ではない。ところが西半部分では、柵列跡は検出されているが空堀跡などは無く、その代わりに、検出された竪穴建物跡は明らかにY期に属するものが多く確認されている。このような検出遺構の配置状況を踏まえた上での復元整備方針が立てられる必要があり、「四阿」としての復元竪穴建物跡は西半部分に2棟ほどを建設するということを考えたい。Y期として検出された竪穴建物跡はこの西半部分に更に4棟ほど残っていることになるが、これらについては、その切合い関係を示しながらの平面表示を考えてはいかがであろうか。そして東半部分については、明瞭にこの時期のものとして検出されている空堀跡や井戸跡や柵列跡を復元表示し、他はオープンスペースとして捉えてゆくことができるであろう。
竪穴建物跡をはじめ、その他の検出遺構についても立体として実物大で復元整備することを提案するものであるが、これらの復元工事にあたっては、発掘調査によって検出された遺構面を保護することが大切であることは言うを待たない。したがって、遺跡や遺構面を保護するための土盛が450oほど必要であり、さらにその上に、復元整備工事のための整備土盛が450〜600o程度は必要となってくる。そしてこれらの土盛のレベルを当初から設定しておかなければ、園路の設置や園内の排水計画などに差し支えが生じてくることがある。
(高島 成侑)
T郭平場東端に位置し、平安時代後期の集落に伴うものと思われる。現径約4m、深さ約4m以上を測る素掘りの井戸である。井戸枠その他、上屋を推定させる材料に乏しく、復原に当たっては、他遺跡に於る良好な検出例を援用せざるを得ないが、危険防止のため、平面標示を基本とする。
井戸枠は丸柱乃至曲板で表現し、若干の立ち上げとする。また、アンツーカー等舗装により、規模・形態等を標示するとともに、水飲場を配する。標示板は埋込みにし、解説・写真・出土遺物・復原イラスト(掘削→使用→廃棄)等情報を伝えるとともに、汚損等への対策を図る。
(齋藤 淳)
T郭の南側の縁にそって検出された柵列跡も復元整備したいものの一つである。検出状況にしたがって、その時期が明確にY期と見做されるものに限って、柱の並びや高さなどを想定しながら復元することは可能であろう。
このような柵列跡の復元整備は、中世末のものではあるが八戸市の史跡根城跡本丸跡で試みられており、その高さや柵木と貫との組合せなどが参照されよう。中里城跡に展開された古代集落跡を取り囲んでいたとみられるこの柵列跡が実物大で復元されることを期待したい。
(高島 成侑)
主郭のほぼ中央には主郭を南北に貫く土塁が残存する。この土塁は15世紀の城跡のものとするとやや弱い施設と考えられる。逆に11世紀の竪穴群とは方向軸が一致しており、この時期の区画と結びつく可能性がある。また土塁の東側に並行する堀が10世紀後半の竪穴を切って作られており、その土が土塁の3分の2程度の高さまで積まれているという見方もある。もっとも堀の南側からは近世に属する焼物も出土しているので決定的なことはいえない。しかし土塁の西側は東側に比べ一段高くなっているので土塁を作る時点で11世紀の地割りが出来ていたと考えることが許されよう。整備の際土塁の西側で建造物群の復元(又は構造を示す設備)を行い、東側は井戸や出入口、遺構の重複状況などを平面的に示す広場として利用したならば、この土塁は役立ち目立つ存在となる。
復元の方法としては現在の高さや幅はそのままにして整備し上部に「どうだんつつじ」「つつじ」「つげ」「あじさい」などを植栽し土塁らしさを表現する方法がある。土塁上にある木はそのまま残したい。出入口は従来通行していた北側と南側に設けるほか、堀の切れている部分を活用するのも一つの方法と考えられるが実行の過程で検討することが必要であろう。
また整備のための土塁発掘調査も必要に応じて行い、構築の状況を確認することが大切である。その際柵列などの存在が確認されたならば、発掘の成果に従うのは当然である。また北側の帯郭や並行する空堀との関連も考えて整備することが大切である。なお空堀もその存在が理解できるように表現してほしい。
(佐藤 仁)
主郭の周辺には帯郭(腰郭)が良く残されている。帯郭の配置はその方位によって1〜3段となっており、南側には急崖となって存在しない所がある。主郭の東側には3段の帯郭状の遺構があることは歴史・構造の項で述べたとおりである。下段の腰郭は部分的なものであり、未調査でもあるので現状のまま保存するのが良いと思う。
中段の帯郭は南側から東・北・西を回り南西側に至るC形をしており、南側の急崖部には存在しない。この帯郭両端は中里城の出入口とつながっており、主郭側の斜面には出入口が存在する可能性もある。またこの郭は上段の帯郭の中に発見された空堀を作る際取り出された土により作られたと考えられ、空堀などの窪みはない。現状は杉林になっており、帯郭の形も明白なので大きく手を加える必要はないと思われる。なお弘法寺側から主郭に上る道の南側の畑には岩木山方面を展望する施設・四阿などを設けるのも一策と考えられれる。
上段の帯郭は南側から東側を回り北側にゆるやかな傾斜をもって達しており、主郭の平場との高低差は北側にゆくほど少くなっている。この遺構は帯郭と考えてきたが、調査の結果空堀のあることがわかった。なお現状は中段同様杉林であるが、城跡の整備に際しては見学者が遺構の状況を理解できるよう配慮してほしい。以下具体例を記述したい。
@)空堀の平面図・断面図などわかりやすく標示する。
A)空堀は堀の状況がわかるように工作する。作られた堀の底部には暗渠を作り排水に万全を期する。その上を堀底道として利用することも考えられる。
B)帯郭を全部堀とし得ない場合、ある程度の深さにし砂利を入れて遊歩道にしたい。
C)この空堀については一度全部発掘することが望ましい。また上部の平場に接する北側の斜面についても発掘が必要と思われる。
帯郭や空堀の復元は小さな山城を立体的に見せるため、力を入れる必要がある。そのためには私有地になっている部分を急いで買収するように努めてほしい。主郭の整備案は私有地の買収を前提に立案すべきである。
(佐藤 仁)
主郭から南に伸びる尾根(神明宮に続く部分)には帯郭をはさんで短い土塁状の遺構が認められる。この部分は斎場の手前からの登り口と、神明宮方面から来る道(旧道といわれてきた)が合流する地点であり、主郭を巡る帯郭に入る要所であるから、土塁横の道筋には門を設けるなどの工夫があっても良いと思う。土塁の部分はある程度方形に土を整備し、その上に「つげ」など陰樹を植栽するのも方法の一つと考える。植栽した木は成長を待って土塁状にカッテングしある程度高さを強調すると見学者が理解しやすくなるのではなかろうか。
(佐藤 仁)
中里城は今回発掘された主郭および腰郭以外の地域も含むものと考えられる。主郭の部分だけの整備では不充分であり、主郭へのアプローチとしての神明宮一帯、弘法寺から主郭までの2つの郭、“座頭ころがし”などを含めて整備することが必要と考える。関東地方から西側では昭和40年代に“風土記の丘”という名称のもとに史跡が整備されている。中里城の場合も主郭を古代の集落として整備するほか周辺一帯を含めて“中里風土記の丘”としてとらえ、主郭への道筋を案内するとともに各時代の文化財を整備し学習できるようにしたい。
(a)神明宮周辺
中里神明宮が現地点に移されたのは江戸時代末期のことである。神社の境内に隣接して広場や相撲場があり、盆踊りや相撲大会に使用されてきた。神域としての神々しさのほか、町民の楽しめる場所でありたい。保存に際してはつぎの点に配慮してほしい。
@)山裾の部分に残る腰郭は大切に保存する。
A)参道に残された松並木は危険のないよう手入れしながら保存し案内板を用意する。
B)神明宮の絵馬には貴重なものが含まれているので保存には万全を期する。
C)「工藤他山」の碑は基礎を安定させ倒れる心配のないようにする。また工藤他山についての解説板を用意する。
D)神明宮から主郭までの腰郭が土取場とならないように対策を講じる。
E)神明宮から主郭までの急斜面は地主の了解を得て雑木の一部を切り新田地帯への展望ができるようにする。斜面には腰郭があるのでそれ等に対する標示もする。
F)遊歩道の両脇の植物に名称の札を付けるほか、凶作の際食料としたものについては食べ方などの説明もつける。可能な場合凶作の際食べられる植物を植えて調理法を記すことも考えて良いと思う。
(b)主郭の西側
主郭から弘法寺の間には空堀や二つの郭がある。空堀については現状維持を望みたい。二つの小さな郭にはそれぞれ帯郭が回らされているのでそれも現状のままで保存してほしい。二つの小郭の内西側の郭は江戸時代から中里村民の信仰の場になっていた所である。現在の神明宮はこの地から移転したものであり、残された老松が往時を物語る。旧神明宮境内は民間信仰碑があるのでそれぞれの特徴を標示して大切に扱いたい。なお昭和20年代に経塚が発見されたのもこの付近と考えられるのでその旨を案内板に書き加える。弘法寺裏の七面様堂地が、出丸であるという説もあり、弘法寺側からの道筋を示す標示板にそのことも付記したい。また真勝寺側一帯には自然地形を利用した防御施設や涌水があるので標柱などを建てるよう配慮してほしい。また涌水地点が埋められないよう保全には力を入れてもらいたい。
主郭と旧神明宮社地の小郭の間にある郭については調査の上、町のシンボルとなるような展望台を設ければと考える。もし不可能だった場合、以前老松(一本松)があった地点に設置することも考えられよう。中里町にふさわしく、かつ“あそこに行こう”という意欲をかきたてる豪快なものでありたい。シンボルタワーからは十三潟、岩木山が見えるほか中里城主郭が鳥瞰できるようにしたい。主郭の西北方にある“座頭ころがし”の部分は中世の中里城にとって重要な防御施設であり、見張りの場所だったとも考えられる。地主等の了承を得て中世の城の防御施設を再現するのも面白かろう。なお、座頭ころがしから見える弘法寺裏の老松は調査の上、町指定の文化財(天然記念物)にすることも考えられる。“座頭ころがし”一帯の杉林が美しく保存されるように願いたい。
最後に中里城の周辺一帯、特に城の東郭“ねごやの沢”や“座頭ころがし”の下部などが廃棄物の捨て場にならないように、また中里城の山裾部が土取場にならないように配慮してほしい。主郭を中心とした総合的な史跡公園が末長く町民の誇りとなり、観光客に関心をもたれるよう期待したい。
(佐藤 仁)