ムラからクニへ(原始)


@氷河期のおわり

 1万数千年前になると、最後の氷河期がおわり、青森県もだんだんと暖かくなってきます。海水面が高くなり、北海道と青森県は、現在のように津軽海峡で、分かれるようになりました。

山々は、それまでの針葉樹林から、ドングリ・クリなどの、実を食べることができる落葉広葉樹林へと変わりました。またナウマン象などの大型の動物は、狩りつくされていなくなり、かわってキツネやイノシシのような小型の動物が現れました。

A縄文時代のはじまり

 このころ、ヒトは土器を発明し、食料を煮て食べることができるようになりました。蟹田町大平山元T遺跡で発見された、もようのまったくない土器などが、青森県で最初の土器と考えられています。

土器の出現によって、数百万年間続いた旧石器時代はおわり、新石器時代へと入ります。日本では、ふつうこの時代を縄文時代と呼び、その土器を縄文土器と呼んでいます。

 縄文時代は、約13000年前からはじまり、最初の土器の時代から、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6つの時期をへて約2300年前まで続きます。

B縄文時代の中里町

 中里町では、縄文時代草創期・早期の土器は発見されていません。中里でもっとも古い土器は、約5500年前、縄文時代前期の深郷田式土器です。縄文時代前期になると、気候はますます暖かくなり、海水面は現在より5〜6mも高くなりました。

縄文時代の大集落三内丸山遺跡(青森市)も、ちょうどこのころから始まります。十三湖は、五所川原や木造のあたりまで広がり、津軽平野のほとんどは、湖水におおわれました。大沢内から今泉にかけての台地は、ちょうど湖の岸になり、シジミ貝や魚がたくさんとれ、人々がムラをつくりはじめました。

 
 
C縄文土器

 縄文土器は、時期によって形やもようがちがいます。中里町の縄文人は、深郷田式土器のあと、前期・中期には円筒式土器、後期には十腰内式土器、晩期には亀ヶ岡式土器などの土器を作り、使っていました。

中里町の代表的な縄文遺跡である、深郷田遺跡からは、前期から晩期までの、すべての土器が発見されています。5500年前から2400年前まで、約3000年間にわたって、人々がくらしていたことがわかっています。

D縄文人のムラ

 古い十三湖に面した台地、とくに深郷田や大沢内ため池の周辺では、大きなムラができ、多くの人々がくらしていました。縄文人は、円やだ円の形に穴をほって、屋根をかけた、竪穴住居とよばれる家に住んでいました。

住居のまん中にある炉では、火がたかれ、料理のほか暖房や照明に利用されていました。また住居の周辺では、倉庫や墓が造られ、ヒョウタン・ソバなどのかんたんな栽培がおこなわれていました。

竪穴住居(深郷田遺跡) 石器(深郷田遺跡) 縄文土器(深郷田遺跡)

E縄文人のくらし

 縄文人は、自然のものを利用して、いろいろなものを作りました。土から土器や土偶、石から石器を作りました。草や木からは、漆器や木器あるいは衣料品、動物のツノや貝がらからは、釣針やアクセサリーなどを作りました。

また、旧石器時代からの狩りのほかに、ドングリなどの木の実ひろい、魚つり・貝ひろいなどをおこなっていました。狩りについては、動きのはやい小動物をとらえるために弓矢を発明したほか、落とし穴でつかまえたりしました。

 F弥生時代と続縄文時代

 1万年近く続いた縄文時代のおわりころ、大陸から、九州方面に米を作る技術がもたらされました。それまで、動物や魚貝・植物などをとって食べていた人々のくらしは、米を作って食べる生活に変わりました。弥生時代のはじまりです。

米作りは、九州地方からすみやかに青森県につたわり、弘前市砂沢遺跡や、田舎館村垂柳遺跡などの弥生遺跡からは、弥生土器や米作りの道具、水田のあとなどが発見されています。

一方、気候などの理由で米を作ることができない地域、北海道や津軽半島・下北半島の一部では、弥生文化の影響を受けつつも、縄文文化をひきついだ生活をしていました。これらを続縄文文化と呼びます。

 G弥生人と続縄文人のくらし

 弥生時代は、約2400年前から約1700年前までの700年間続きました。いちはやく米作りを行った九州や近畿地方では、この間に佐賀県吉野ヶ里遺跡のような強大なクニができました。

弥生人は、弥生土器を作り、石器とあわせて鉄器や青銅器など金属の道具を使うようになりましたが、青森県では弥生時代のおわりころになると、米作りがおとろえ遺跡の数も少なくなります。

一方、続縄文人は、縄文土器とよく似た土器や、いろいろな石器を作り、おもに植物・動物・魚貝などを食べていました。続縄文時代は、古墳時代のおわりころまで続きます。

 H巨大古墳の時代

 弥生時代がおわると、近畿地方では、前方後円墳と呼ばれる巨大な古墳(墓)が造られます。これらの古墳は、しだいに九州から東北地方南部でも造られるようになります。前方後円墳が造られた時代を古墳時代と呼び、4世紀から6世紀まで続きますが、青森県ではこの古墳が、まだ発見されていません。

ただし、一部の遺跡では、古墳時代の土器である土師器や須恵器、あるいはそのころの続縄文土器が見つかっています。天間林村森ヶ沢遺跡では、両方の土器が一緒に見つかっていますので青森県には両方の文化が入ってきたと考えられます。一方、中里町ではいずれも発見されていません。