蝦夷のクニ(古代)


@飛鳥時代

 1400年前(7世紀)の飛鳥時代になると、奈良県明日香村を中心とする大和朝廷が、急速に領地を拡大し、国内のほとんどをおさめるようになります。

 このころ蝦夷とよばれた東北北部の人々も、大和朝廷にしたがったようです。八戸市周辺では、このころ造られた終末期古墳とよばれる遺跡がいくつか発見されています。これらの古墳には、武器や馬具・玉・土器などが埋められています。

A平城京―奈良時代

 1300年前(8世紀)になると、都が奈良の平城京におかれ、奈良時代に入ります。青森県内でもこのころの土師器・須恵器を出土する遺跡が多くなります。現在のところ、30ヵ所以上ありますが、とくに南部地方に多いようです。津軽半島では、市浦村中島遺跡などで、奈良時代の土器が見つかっています。

 一方、中里町では、飛鳥時代・奈良時代とも遺跡が発見されていませんので、このころのようすも、まったくわかっていません。おそらく、それほど人が住んでいなかったのでしょうか。

B蝦夷の反乱―平安時代

 1200年前(9世紀)に入ると、都は京都の平安京にうつり平安時代になります。朝廷は秋田城(秋田県)などの城柵を拠点に、東北北部への進出を強めました。独自のクニをつくっていた蝦夷たちは、これらの動きに反抗し、朝廷側と争うようになります。

 一方、こうした大規模な戦乱にともなって、多くの住民が青森県に移住、避難してくるようになり、県内にはこの時期多くのムラがつくられるようになります。現在のところ、青森県内の平安時代の遺跡は、600ヶ所以上あります。

     中里城遺跡            中里城遺跡空壕跡

C防ぎょ集落の成立

 中里町でも、弥生時代から奈良時代までの約1300年間の空白をへて、ふたたび人々が住みはじめます。朝廷から、蝦夷とよよばれた人々です。

 1100年前(10世紀)には、まず大沢内ため池や深郷田などのわりあい低い丘に、ムラがつくられはじめます。10世紀中ごろになると唐崎遺跡(今泉)・板橋遺跡(尾別)・胡桃谷遺跡(尾別)・中里城遺跡(中里)・一本松遺跡(深郷田)など、台地上に集落がつくられるようになります。

 1000年前(11世紀)になると、戦乱がいよいよはげしくなり、ほとんどの集落が、空堀・柵列などによって守りをかためるようになります。これらを防ぎょ集落とよんでいます。

D蝦夷のくらし

 平安時代の中里の人々は、地面に四角い穴をほって屋根をかける竪穴住居に住んでいました。コメ・ヒエなどのほか、クルミ・クリなどの木の実、サケなどの魚を、土器で煮たり、焼いたりして食べていたと考えられます。このころ使われた土器は、古墳時代から用いられている土師器や須恵器です。

 住居の中では、機をおったり、鍛冶をおこなったりもしていました。また、北海道の蝦夷と交流して、擦文土器と呼ばれる土器や、タカの羽・クマの皮、コンブなどを手に入れていたと考えられます。

土師器(中里城遺跡) 須恵器(中里城遺跡) 擦文土器(中里城遺跡)

E古代のおわり

 こうしたなか、東北地方の戦乱は11世紀後半になってもおさまりませんでした。岩手や秋田の豪族、安倍氏や清原氏は、いったんは朝廷にしたがったものの、やがて大きな反乱をおこし、当時力をつけてきた源氏武士団に滅ぼされます。

 これらと関係があるかどうかはわかりませんが、そのころには、中里町の防ぎょ集落はすべてなくなり、中里のようすは、ふたたびわからなくなります。

 以後東北地方では、平泉(岩手県)を中心とする藤原氏が大きな力をもつようになり、仏教を中心とした平泉文化が栄えました。