武士の支配(中世)


@中世のはじまり

 平安時代の終わりころ(12世紀末)、朝廷では平氏が力をほこっていましたが、やがて源氏に滅ぼされました。源氏は、平泉の藤原氏もやぶり、鎌倉に幕府を開きました。

 それまでの朝廷が国をおさめていた時代にかわって、武士の時代がはじまりました。鎌倉幕府の支配は、津軽地方にもおよび、このとき津軽地方も日本国に統一されました。津軽は、六つの郡に分けられて支配されましたが、中里町は、「西浜」にふくまれました。

A安藤氏の台頭―鎌倉時代

 800年前(13世紀)になると、源氏の将軍が暗殺され、鎌倉幕府は、北条氏にひきつがれます。このころ、津軽地方の豪族安藤氏は、藤崎から十三湊に進出したようです。安藤氏は、北条氏の土地を管理するとともに、北方の支配をまかされ、強い力をもつようになってきます。

 700年前(14世紀)になると、鎌倉幕府はおとろえ、ふたたび朝廷が力をつけてきます。安藤氏をはじめとする津軽の豪族も、武家(幕府)方と宮(朝廷)方にわかれて争いました。中里の豪族、新関又次郎(中里城主?)や乙辺地小三郎(尾別館主?)は、幕府に味方して戦いましたが、鎌倉幕府は14世紀前半朝廷方によってほろぼされました。

      中里城跡                尾別館跡

B安藤氏の全盛期―室町時代

 朝廷方についた安藤氏は、朝廷や、その後をひきついだ足利氏(室町幕府)が政治をおこなうようになるとますます栄えました。

 十三湊周辺に城館をかまえた安藤氏は、室町幕府にばくだいな馬・タカ・中国銭・アザラシの皮・コンブなどを献上しました。それらのほとんどは、北海道や大陸との交易によってもたらされたものでした。

 重要な貿易港となった十三湊では、中国製や日本製の陶磁器を積んだ船や、北海道の産物を積んだ船、あるいは京都へむかう船などが、さかんに行き来していたことでしょう。

C南部氏の津軽進出

 南部氏は、八戸周辺を支配していた豪族でしたが、14世紀をすぎると津軽に進出するようになりました。 安藤氏は、五所川原市から小泊村にかけての街道(下ノ切道)ぞいに、多くの城館を造り、南部氏との争いにそなえました。

 中里町にも、今泉神明宮館遺跡(今泉)・黒崎館遺跡(高根)・胡桃谷遺跡(尾別)・中里城遺跡(中里)・五林遺跡(中里)などの城館が造られましたが、多くは古代の防ぎょ集落あとを利用したものです。

         青磁                   白磁

D中世のくらし

 城館の主の名前などはよくわかっていませんが、おそらく、安藤氏配下の豪族が造ったものでしょう。

 城館あとからは、十三湊を経由して入ってきた、青磁・白磁といった中国製の美しい磁器や、瀬戸、越前、珠洲といった日本各地で作られた陶器、あるいは石製の茶臼などが出てきます。城館の主は、戦さの合間には、陶磁器で食事をしたり、茶臼でひいた抹茶を飲むといったような、ぜいたくなくらしをしていたようです。

 また、現在五林神社にのこる、五輪塔や宝篋印塔は、そのころの武士の墓と考えられています。

五輪塔(五輪神社)   唐川城跡(市浦村)   柴崎城跡(小泊村)

E安藤氏と南部氏の争い

 安藤氏は、自分の娘を南部氏と結婚させて、南部氏との争いを防ごうとしましたが、南部氏の進出はいよいよ強まりました。

 550年前(15世紀前半)ころ、南部氏は、安藤氏の城館を、次々と攻めはじめました。安藤氏は、十三湊より唐川城(市浦村)、柴崎城(小泊村)へと後退しましたが、結局北海道へ逃れることになります。津軽地方は、完全に南部氏の支配下となりました。主を失った中里町の城館は、ふたたび無人となったようです。

F空白の16世紀

 安藤氏が北海道に追われた15世紀前半以降16世紀末まで、中里町には、歴史上の空白がおとずれます。そのころの陶磁器などがまったく出土しないのです。

 その空白の時期、南部氏の支配となった津軽地方では、浪岡城(浪岡町)に北畠氏が入り、大きな勢力をもつようになります。

 北畠氏は、津軽半島や十三湊などにも力をおよぼし、当時の村の名前を文書にのこしています。中里も、支配下となったはずですが、中里には村がなかったのか、まったく名前が出てきません。