新田開発と藩政時代(近世)


@為信の津軽統一

 津軽地方に勢力をほこった北畠氏ですが、400年前、大浦(津軽)氏との戦いにやぶれ、浪岡城は落城しました。南部氏の勢力もすべて追われ、津軽氏は津軽地方の統一に成功しました。

 一方、中央では、豊臣氏の後をついだ徳川氏が日本を統一しました。徳川氏は江戸幕府を開き、全国の藩を支配する体制をつくりました。

 津軽氏の領土も藩として認められ、以後津軽(弘前)藩と呼ばれるようになります。津軽氏は、弘前に城下町をつくり、藩の基礎をかためるとともに、米の増産をめざして、津軽半島の新田開発を計画しました。

    弘前城       貞享の絵図に描かれた中里村(中里町蔵)     

A中里の成立〜中里・内潟地区

 400年前(17世紀)のはじめころまでには、中里にもふたたび人が集まり、村ができはじめます。人々は、水田や畑をひらき、ヒバ・ウルシなどを育て、しだいに村を大きくしていきました。

 17世紀中ごろには、八幡村(深郷田村)・中里村・宮野沢村・尾辺地村(尾別村)・黒崎村(高根村)・薄市村・今泉村が、田舎庄下ノ切遣(代官所飯積村:現在の五所川原市飯詰)におかれ、ほぼ現在の中里・内潟地区の基礎ができました。

 17世紀後半には、弘前藩による検地がおこなわれ、これらの村々は、田舎庄金木組(代官所金木村)におかれるようになりました。

B新田開発〜武田地区

 一方、17世紀後半以降、津軽平野の新田開発が広くおこなわれ、多くの新しい村が誕生しました。弘前藩は、大規模な堤防や排水工事をおこない、開拓をすすめました。

 こうして、大沢内村・久米田村・八幡村・船岡村・宮川村・豊島村・芦野村・田茂木村・福井村・富野村・豊岡村・川内村・福浦村・今岡村など、現在の武田地区を中心とした村々がひらかれました。

 これらには、今では合併してなくなった村もふくまれています。それらの村は、金木新田(代官所金木村)に所属しました。なお、長泥村はやや遅れて、江戸時代後期(18世紀前半)に開発されました。

C江戸時代のくらし

 江戸時代は、士農工商といって、武士・農民・工人・商人の身分がはっきりと分かれていました。このうち江戸時代の中里で、もっとも多かったのは農民です。

 農民の生活は、細かい部分にわたって規制され、また毎年、年貢米をおさめなくてはなりませんでした。ぜいたくはかたく禁じられ、ふだんの生活では、絹の着物や白米、板ぶき屋根などは禁止されていました。

このようにきびしい生活を送りながらも、季節ごとのお祭りや、盆おどり・お山参詣などが、農民の心を なぐさめました。

なにもささ踊り(中里町)  八幡御蔵跡 (中里町)   

D江戸時代の産業

 当時の中里では、農業・林業・製鉄業などがおもな産業でした。まず農業ですが、秋に収穫された米の一部(約6割)は、年貢として藩の御蔵へおさめられました。18世紀前後には、高根御蔵や富野御蔵へおさめられていましたが、その後は、八幡御蔵へおさめられるようになりました。

 御蔵の米は、岩木川・十三湊をとおって、鯵ヶ沢湊へ運ばれ(「十三小廻し」といいます)、そこで大きな船に積みかえられて関西方面へ運ばれました。

 一方、ヒバを産する山々は、藩によって保護され、山火事や無断の伐採は、きびしく罰せられました。また、今泉の山々では、藩によって製鉄がおこなわれていました。今泉母沢遺跡などには、そのころの鉄くずが、現在もたくさんのこっています。

E腰切田と飢きん

 弘前藩は、新田開発によって成長しましたが、十三湖・岩木川周辺にひらかれた内潟・武田地区の水田は、たびたび水害におそわれたうえ、腰までどろの中につかって米作りをしなければならない腰切田でした。

 さらに人々を苦しめたのは、凶作にともなう飢きんです。津軽地方では、18世紀後半より19世紀前半にかけて、何度も飢きんがおこり、とくに天明・天保の大飢きんでは、多くの人々が亡くなりました。

 冷害や水不足・害虫などが凶作の原因ですが、藩のむりな年貢のとりたても被害を大きくしました。町のところどころにある供養塔が、飢きんの悲惨さを物語っています。

  俳句額(尾別薬師堂)  吉田松陰碑(今泉)

F江戸時代の文化

 江戸時代の人々は、信仰があつく、中里町内の寺や神社、あるいは百万遍・庚申塔といった民間信仰の石碑は、ほとんどがこのころ作られました。

 富野にある猿賀神社は、十三小廻しなどにたずさわる船乗りの信仰を集めました。神社内には、江戸末期から明治時代にかけて、それらの人々がおさめた船絵馬が、90枚近く保存されています。船絵馬は、大沢内の胸肩神社や十和田神社にも、おさめられました。

 また、尾別の薬師堂には、そのころの俳句額が残されており、当時の風流な文化がうかがえます。

 江戸時代末期になると、菅江真澄(愛知県出身)や吉田松陰(山口県出身)、工藤他山・岡本青鵞(弘前出身)などの人々があいついで訪れ、中里のようすを記録に残しています。