博物館日誌
1999/3/28   「西九州城館紀行」の最後を飾るのは、鹿児島県知覧町に所在する国史跡「知覧城跡(調査:知覧町教育委員会)」と、東市来町の「向栫城跡遺跡(調査:鹿児島県立埋蔵文化財センター)」です。

いずれも中世城館ですが、巨大な横堀に囲まれた複数の郭が並立して、ひとつの城を形成するいわゆる「館屋敷型」城郭に分類されるものです。同タイプの城は、南九州地方や東北北部に特有のものとされていますが、なぜ日本列島の北と南に同様の形態の城館が発達したのかは判明していません。

「浪岡城」「根城」「七戸城」「聖寿寺館」などに代表される東北北部の城館の堀も立派ですが、南九州地方のシラス土壌を削りこんだ殆ど垂直に近い空堀には圧倒されました。しかも堀底から平場までの比高差が、数10mを越えるという物々しさです。反面、常に崩落の危険がつきまとい、保存管理上はやっかいこの上ないという地元教育委員会の方のお話に思わず納得してしまいました。調査も大変だけど、管理も大変な南九州の城に取り組まれている皆様に敬意を表したいと思います。

   
    知覧城の巨大な横堀。殆ど垂直。 比較的簡単な虎口
   
    シラスを削ってつくられた向栫城跡の横堀。調査とはいえ、よく掘ったものです。
1999/3/27   熊本県人吉市は、鎌倉時代から続く豪族相良氏の城下町です。人吉の象徴が、町の中心部、球磨川河畔に聳える「人吉城跡」。中世と近世の山城が複合しており、近世城郭は国史跡に指定されています。

近世城郭は、はるかに広大な中世城館の一部を再利用して築かれていますが、その中世部分についても一括して国史跡にしようという動きがあるようです。当日は、雪が舞って寒々としていましたが、城跡から眺めた球磨川の流れが泰然として印象的でした。

   
    中世期の横堀 近世城郭の追手
   
    天然の要害球磨川 段状に削平された平場
   
    復元された櫓 最近発見された近世の地下蔵
1999/3/25   熊本県菊鹿町に所在する「鞠智城(きくちじょう)」は、白村江の敗戦後急遽築造された朝鮮式山城です。太宰府防衛を目的とする大野城・基肄城等に対して、鞠智城はそれらの最前線へ食糧や武器などを補給する支援基地としての役割が考えられています。

谷や丘陵を土塁で囲繞し取り込む広大な防御ラインは、古代防御性集落である市浦村福島城跡を彷彿させます。現在発掘調査と並行して整備が進められており、米蔵等が復元されています。

一方天下の名城「熊本城」は、加藤清正が7年の歳月をかけて築いた100万uの大城です。西南の役の最中、原因不明の失火により一部を残して焼失してしまいましたが、昭和になって、天守閣をはじめとする建物群が再建され、往時の威容をしのぶことができます。広大な城域に巨大な堀、そして石垣、石垣、石垣・・・。本当に圧倒されました。

   
    非常に珍しい八角形建物の復元工事 素焼きの瓦で葺かれた米倉
   
    二の丸方面からの玄関口「西大手櫓門」 堂々たる天守閣は昭和35年再建。内部はが資料館になっている。
   
    焼失を免れた数少ない建物「宇土櫓」 見事な曲線美を誇る石垣群
1999/3/16   豊臣秀吉の朝鮮半島侵略、いわゆる「文禄・慶長の役」の本拠地となった佐賀県鎮西町周辺は、約17万uの規模を誇る名護屋城跡を中心に、全国から参集した120余りの大名の陣屋跡からなる広大な遺跡群が広がります。

徳川家康・前田利家等クラスの巨大な陣屋跡から、50〜数百人の手勢で遠く北奥から駆けつけた津軽為信や南部信直等の陣屋跡まで、良好な保存状態でも残されています。ただ、百件を越える遺跡数のため、調査・指定・整備が実施されているのはごく一部で、全容解明は今後の課題となっています。

文禄・慶長の役は秀吉の死によって終わり、役割を終えた名護屋城も破壊されます。同城跡では、あえて盛時の姿ではなく、そうした廃絶時の状況を復元しています。城が辿ってきた歴史的経緯を忠実に復元することによって、日本・朝鮮間の関係史を問い直そうという試みでしょうか。

発掘調査や石垣修理等の環境整備の中核となる佐賀県立名護屋城博物館。常設展示は「日本列島と朝鮮半島の交流史」をテーマに、「名護屋城以前」「歴史の中の名護屋城」「特別史跡名護屋城跡並びに陣屋跡」「名護屋城以後」の4コーナーから構成されています。

解説板等は、ハングル語が併記されていますが、実際に朝鮮半島からの来館者も少なくないようです。

   
    名護屋城跡本丸より朝鮮半島方面を望む。眼下に見えるのは徳川家康陣屋跡。 発掘調査が現在も進行中。箕の中は石だらけで本当に重そう。
   
    石垣修理は、一つひとつの石に番号を振って管理しています。 破城の状態(石垣等の破壊)を復元した整備
   
   

津軽為信陣屋跡

周囲に土塁を巡らす南部信直陣屋跡
1999/3/15   佐賀県唐津といえば、江戸時代の代表的な陶器「唐津焼」の積出港として有名ですが、唐津藩初代藩主寺沢志摩守広高が築城したのが「唐津城」です。私たちが唐津城を訪れたのはすでに午後6時くらいで、資料館等もすでに閉館していました。白壁の天守(昭和41年復元)を見上げつつ、結構急な石段を苦労して上がると(エレベータでも上れるらしい)、人気のない本丸の向こうには、残照の唐津湾と松浦川に挟まれた街がひっそりと佇んでいました。唐津城本丸から眺めおろした薄暮の市街は、太宰治風に言うとまさに「隠沼」、本当に見事なものでした。

一方、魏志倭人伝中の国名に由来する「末廬館」は、なんとあの「菜畑遺跡」の上に建設された博物館です。菜畑遺跡は、米作りの始まりを弥生時代に求めるそれまでの常識をうち破って、縄文時代晩期の水田跡が発見されたはじめての遺跡として学界を賑わせました。末廬館では、石包丁をはじめとする出土遺物を展示するとともに、屋外に竪穴住居や水田・植生が整備され、地表面下数メートルに眠る遺跡の復元を行っています。

   

唐津城石垣

夕暮れに佇む唐津城天守
   
    唐津湾 末廬館
1999/3/13   今日は、大規模な発掘調査、40haに及ぶ広大な遺跡範囲、開発から整備保存への方向転換、積極的な立体復元、多くの見学者等々、三内丸山遺跡の先輩格に相当する弥生時代の環壕集落吉野ヶ里遺跡をご紹介いたします。

駐車場から徒歩約5分、土産店の前を通過すると、右手に「物見櫓」が佇立するおなじみの風景が広がります。左手にはガイダンス施設があり、甕棺を中心とした出土遺物や環壕断面の地層剥取り等が展示されています。2月下旬という季節ゆえか割合空いていましたが、それでも見学者は途切れることがありません。

一時期の過熱報道からは一段落した同遺跡ですが、内郭の周辺ではあちらこちらで整備工事の槌音が聞こえ、「長い時間をかけて発展成長していく公園(公園整備基本方針より)」づくりが着々と具現化しています。(整備の経緯等については、近年刊行された佐賀県教育委員会納富俊雄さん著の「吉野ヶ里遺跡 保存と活用の道」に詳しい。)

   
   
1999/3/6   今日から5回くらいの予定で、「西九州城館紀行」をお届けします。

最初に紹介するのは、福岡県太宰府市に所在する太宰府跡並びに水城跡です。太宰府跡では、政庁跡を中心に7C後〜12C前の遺構群が検出されており、発掘調査のかたわら門・回廊跡や脇殿等の復元整備が進められています。水城跡は太宰府前面の防御を目的として設けられた全長約1q・高さ10mの大土塁です。

いずれも、白村江の戦い(663年)で唐・新羅軍に破れた律令国家が、急遽築造したものと考えられていますが、その圧倒的な規模に当時の政府の緊迫感あるいは恐怖感といったものをみる思いでした。

現在はのどかな太宰府跡。月曜日だったため発掘調査も展示館もお休みでした。

   
    植栽で建物を表現する整備方法 発掘調査の模様は一般に開放されています
   
    道端にひっそりとたたずむ標柱 水城を横切る九州自動車道
1999/3/3   DAN杉本さん作の「3D風景ナビゲータカシミール3D」は、非常に有用なフリーソフトです。国土地理院発行の数値地図(CD-ROM版)やフリーの数値地図を基に、立体的な地形図を描写したり、任意の地点から見た(撮影した)3D風景等を楽しむことが出来ます。

描写もいろいろ調整でき、季節感から天候・時刻などまで細かく表現することが可能です。当博物館では、それらに遺跡分布を落とし込んだり、当時の情景復元等に使用しています。

相馬さんのホームページ「青森遺跡探訪」では、青森県内遺跡の緯度・経度一覧を公開していますが、同データとリレーションできるようになると、分布図が一瞬でつくれ、しかも3D描写も簡単という、夢のソフト「分布図くん(仮称)」誕生となるんですが・・・。

   
    沼崎付近上空300mから見た縄文時代前期の二ツ森貝塚(高さ3倍)
   
    五所川原須恵器の分布(高さ2.5倍)

1999年2月

1999年1月

1998年12月

1998年11月

1998年10月

1998年9月