博物館最新ニュース
1999/11/20
津軽富士こと岩木山の山頂部もすっかり雪におおわれ、冬の到来をひしひしと感じるこの頃ですが、岩木山といえば津軽地方の大部分から眺められ、古くから信仰の対象となっていることはご存じの方も多いと思われます。ちなみに、作家太宰治小説『津軽』において以下のような文章で、岩木山に対する津軽人のこだわりを表現しています。

「や!富士。いいなあ。」と私は叫んだ。富士ではなかった。津軽富士と呼ばれている一千六百二十五メートルの岩木山が、満目の水田の尽きるところに、ふわりと浮んでいる。実際、軽く浮んでいる感じなのである。したたるほど真蒼で、富士山よりもっと女らしく、十二単衣の裾を、銀杏の葉をさかさに立てたようにぱらりとひらいて左右の均齋も正しく、静かに青空に浮んでいる。

決して高い山ではないが、けれども、なかなか、透きとおるくらいに  たる美女ではある。「金木も、どうも、わるくないじゃないか。」私は、あわてたような口調で言った。「わるくないよ。」口をとがらせて言っている。「いいですな。」お婿さんは落ちついて言った。

私はこの旅行で、さまざまの方面からこの津軽富士を眺めたが、弘前から見るといかにも重くどっしりして、岩木山はやはり弘前のものかも知れないと思う一方、また津軽平野の金木、五所川原、木造あたりから眺めた岩木山の端正で華奢な姿も忘れられなかった。西海岸から見た山容は、まるで駄目である。崩れてしまって、もはや美人の面影は無い。

太宰に限らず、津軽の人々は、自分の住む地域から見た岩木山がもっとも秀麗であると頑なに思いこんで疑いませんが、今日は、東西南北から眺めた岩木山を徹底的に比較してみようということで、国土地理院刊行の数値地図「50mメッシュ(標高) 日本-U」と、DAN杉本さん作の3D風景・地図ナビゲータ「カシミール3D Ver6.0Beta5を利用して、シュミレートしてみました。さて、どの方向から眺めた岩木山が、いちばん素敵でしょうか・・・。

(左)弘前・黒石方面(東)から眺めた岩木山と、(右)鰺ヶ沢・深浦方面(西)から眺めた岩木山

(左)白神山地方面(南)から眺めた岩木山と、(右)中里・五所川原方面(北)から眺めた岩木山
1999/11/11
昭和40年(1965)に刊行された『中里町誌』は、性格不明の横穴が町内に10ヶ所以上存在することを伝えており、そのうち4ヶ所は写真も掲載されています(モノクロ写真)。横穴は、谷や沢に面した斜面中腹に開口部があり、奥行きは5〜6m、高さと幅はともに1,5〜1,8m位で、奥の方に1つあるいは2つ外気に通ずる径30〜45pの穴があけられていると報告されています。また、何のためにつくられたかは不明であるものの、周辺部に鉄滓等が散布することから製鉄に関係するものであろうと推定しています。

それから40年近く経て、これらの横穴はほぼ所在地不明の状態となっており、遺跡登録も適わない状態でした。ところが先日、宮野沢外崎さんという方から、「落とし穴ッコ」と呼ばれている横穴へ行って来て、近くから鉄滓を拾ったという情報を寄せていただきました。話によると、宮野沢には「カネ(金?)穴ッコ」とよばれる横穴もあって(現在は崩れてしまったそうですが)、それが町誌に掲載されているものであるらしいこと、「落とし穴ッコ」は戦時中は臨時の防空壕として利用され、コウモリが生息していたことなどをご教示いただきました。

そういうわけで、さっそく現地へ案内してもらったところ、宮野沢の集落外れから苗代沢沿いに徒歩約20分、谷斜面の中腹に確かに横穴が開いていました。内部はだいぶ崩れて埋まっていますが、形態的にはほぼ町誌の記述に沿ったものでした。当初製鉄炉にともなう、炭窯ではないかと思いましたが、横穴周辺からは焼土ほか炭化物等一切確認できず性格は不明のままです。

周辺部を探したところ、苗代沢を挟んだ真向かいに半円状に削平された部分(炉跡かどうかは不明)があり、その直下より約50m位の範囲にわたって鉄滓羽口が散布していました。羽口は、推定外径15〜16pの大型サイズで、炉壁に装着された先端部であるらしく溶着物が厚くこびりついています。ただし同内径は4〜5pと小さく、厚みが5p近くあります。操業年代の根拠となる、土器や陶磁器は、残念ながら1点も見つかりませんでしたが、今後類例の発見に努め、詳細を明らかにしていきたいと思います。

宮野沢螢沢横穴(カネ穴ッコ?) 今泉唐崎横穴 上高根母沢横穴
藪をかき分けて進む道中 斜面中腹にポッカリ穴をあける「落とし穴ッコ」 周辺より採集された、羽口・鉄滓・炉壁(?)
1999/11/6
中里町総合文化センター-PARUNASU-は、オープンから1年数ヶ月を迎えましたが、このほどようやく念願の標示板が完成しました。博物館が、文化ホールの中にあるとはなかなか思い付かないらしく、「場所がわかりにくい!!」というお叱りを、しょっちゅういただいていただけに、多少ホッとする思いです。

(大)7.7*2.9mと(小)3*1.2mの堂々たるもので、夜間の視認性も反射効果で良好です。

さらに今日は、念には念を入れて、まだわかりにくいというドライバー諸兄のために、パルナスまでの道のりを図解し、完璧を期したいと思います。

聳える大きい方の標示板

広域農道「米・マイロード」をひたすらに北上します。

中里町に入ってからしばらくして、写真のような案内板と、右奥の「北緯40°塔」が見えたら、すかさず信号を右折します。

右折してすぐ、右手にトマトの看板の「ピュア(特産物直売所)」が見えます。

中里の特産物ほか、食堂も併設されており、みそラーメンがおいしいとなかなかの評判。

1qほど水田の中の道路を直進し、案内板が見えたら、信号を左折し、国道339号線にはいります。

左手に見える白い建物は、八幡町営住宅です。

2qほど直進すると、右手前方に、パルナスの巨大な陰が見えてきます。

ちなみに道路左側に見える柵状のものは、地吹雪を防ぐ防雪柵です。

再び案内板が見えたら、信号を右折します。

右手には、パルナスの西面と、完成したばかりの標示板(大)が見えています。

信号を右折してすぐ、標示板(小)が見えますので、そこを右折してパルナス駐車場へお入りください。
1999/10/27
中里町立博物館では、学校休業日の毎月第2・第4土曜日にかぎり、町内小中学生を対象とした無料開放を実施しています。同日は、町内を巡る無料バスも運行され、毎回子供たちで賑わいますが、先週の23日(土)は、併せて「今だから、飢饉食体験!」と題する第3回こども教室が開催されました。

同こども教室は、現在開催されている秋の企画展「江戸時代の農民たち」の関連事業として開催されました。昔の農具の使用体験(一部近現代以降の農具)や、農作業着の試着日常時・飢饉時の食事体験など各コーナーは、開館から子供達があふれ、とくにカテ飯(ヒエ・ムギ混合飯)・シグサ汁(干した大根葉の味噌汁)・トチ餅などのメニューが用意された試食コーナーは大好評で、一人で7杯もお代わりする子もいました。かつての農民の質素な暮らしを追体験してもらう意図とは裏腹に、「おいしい!」を連発する子供たちに胸中は複雑・・・。

一方、農具体験の方も、物珍しいせいか、籾を選別したり、挽いたり搗いたりとすべての作業を一生懸命こなしていました。結局、実際の環境からある部分のみ切り離した「体験」というのは、果たして効果があるのかどうか・・・。せめて歴史への興味の導入になってくれれば幸いと言うほかありません。

かつての農具体験 足踏式脱穀機 水車・千歯扱き
唐箕による選別作業 試食コーナー 結構おいしそう
搗き臼による製粉 千歯扱き・石臼体験 結構楽しそう
1999/10/12
去る10月11日、毎年恒例の博物館移動講座が開催されました。今年度は、青森市内の史跡・博物館を中心に見学を予定していましたが、当日はあいにくの雨で、小牧野遺跡をはじめとする史跡見学はキャンセルされました。そのため、当初から予定されていた棟方志功記念館船の博物館(みちのく北方漁船博物館)両館のほか、急遽近世の豪農旧平山家住宅(国重文:五所川原市)・稽古館森林博物館等を巡ることになり、博物館尽くしの一日となりました。

稽古館は、青森市に移管されてから始めて行きましたが、ちょうど市内の遺跡展が開催されており、小牧野遺跡・小三内遺跡をはじめとする出土遺物群が展示されていました。また、船の博物館は、開館3ヶ月に満たない新館ですが、激しい雨が降り続ける悪天候にもかかわらず、こども連れの家族で賑わっていました。

以上に、郷土館三内丸山遺跡展示室を加えれば、ほぼ青森市内の博物館制覇となるかも。あと、行ったことがないけど、雪中行軍資料館もありましたね。いずれも見応えのある館ばかりですので、八甲田の紅葉狩りがてら、博物館ラリーもよいかもしれません。また市内の各施設には「-青森の四季-観光手形」という小さな無料パンフレットが置かれており、同手形に掲載されている施設では、手形を呈示することにより、料金割引や記念品の特典を受けられるキャンペーンを実施しています。ちなみに森林博物館で利用した際には、「博物館特製しおり」を頂戴しました。ぜひ利用しましょう。

旧平山家住宅の門構え 旧平山家住宅内部 棟方志功記念館
船の博物館   青森市森林博物館

98.09 98.10 98.11 98.12

99.01 99.02 99.03 99.04-05 99.06-07 99.08-09